ハーバード大学、コロンビア大学などアメリカ有名大学の正規留学相談なら留学相談ネットへ

わたしの留学体験記

わたしの海外・アメリカ(正規)留学体験記

130331 海外、アメリカの大学へ(正規)留学 ドクターサトウ自己紹介

わたくしドクターサトウの海外、アメリカ正規留学体験記を、これからつづっていきたいとおもいます。
これから海外やアメリカの大学へ正規留学をしたい方々にとって、わたしのアメリカ大学・大学院の生の体験が参考になれば幸いです。

長い、長い物語のはじまりです。
どうぞお楽しみに。



イントロダクション

わたしがアメリカに行こうとおもったのは、日本の大学に通っていたころ、アメリカの大学のシステムに興味をもったからです。

一度そこで、自分の力がどこまで通用するかやってみようとおもったのです。

それで、日本の大学院を出た頃、すぐにアメリカの大学に行こうとおもっていたのですが、金銭的な問題もあって、一度現場の教師になったほうがいいと考え、教職につきました。

そこでカウンセラーおよび教諭として務めたのですが、良い経験にはなりましたけれども、日本の学校教育の矛盾もよく理解できました。

幸い忙しかったので、お金を使う暇がなく、500万円ほど手元にまとまったお金ができました。

そこで、アメリカの大学に入学しようとおもったのですが、しばらく英語から離れていたので、最初に受けたTOEFLは450点しかありませんでした。

これではとても大学の学部でさえ入学できないのではないかとおもいましたが、だめもとで30くらいのアメリカの大学に願書を出してみました。

すると、まったく聞いたこともないテネシーの大学から、いきなりI20(入学許可証)が送られてきたのです。



わたしは、驚きました。

どんな学校か知らなかったので、それから詳しく調べたのです。

当時は、インターネットもなかったので、アメリカの大学案内(英文)を紀伊国屋から買ってきて調べました。

そうしたら、その大学が求めるTOEFLの得点は500点と書いてあったので、どうして受かったよくわかりませんでした。

ただ、よく読んでみると、「ただし夏休みの集中英語コースをとること」と書いてありました。



このことは、後になってわかったのですが、むしろよかったのです。

もしわたしが500点とっていたら、いきなり9月から授業が始まってしまいますよね。

とても、ついていけないということが、後でわかりました。

5月から9月までの英語に慣らす時間があったからこそ、うまくいったのだとおもいます。

それでも、たいへんでした。



なぜアメリカの勉強がたいへんかということを、これからつづっていきたいとおもいます。


アメリカの最初の大学

アメリカの大学の勉強と日本の大学の勉強の違い

アメリカの大学の勉強で、日本の大学との違いをお話したいとおもいます。

たとえば、夏の間に英語を使わない科目で水泳、合唱、そして美術の科目をとることができました。

日本であれば、これらは半分遊びみたいな感じになるかなとおもいます。

ところが、みんなまじめな内容の授業でした。

水泳では、四種目の泳法(クロール、平泳ぎ、背及び、バタフライ)を、きちんと泳げるようにしなければならないという課題がありました。

それも、すべて一分以内に50メールを泳がなければいけないのです。

練習も一時間半の授業の間はもちろん、授業が終わってからも練習しなければいけなかったのです。

そして、最後にテストがあります。

テストは、実技とレポートがあります。

これらを全部こなした上で、やっと一単位がとれます。

ずいぶん日本の大学と違うとおもいませんか?

でも、これによって、本当に泳げるようになります。

このように、しっかり教育するというのは、他の科目も同じでした。

美術の内容は絵だったのですが、夏の二ヶ月の間、水彩、デッサン、油絵などを、十作品くらい完成させるのが課題でした。

これも、とてもたいへんです。

しかし、この科目を選択したことで、絵はとても上手くなったそうです。

美術にかんしては、これは後の話ですが、陶芸をとった人がいました。

たぶん、お茶碗をつくったりするだけだとおもって、比較的らくだとおもったそうです。

ところが、内容は本格的でとてもたいへんだったのです。

せっかくつくった作品を窯で焼くのですが、割れてしまうとそれは作品として認められないのです。

したがって、このコースをとった留学生たちは、一日中、陶芸の部屋でお茶碗づくりに格闘していました。

せっかくつくったお茶碗も、半数は壊れてしまうので、本当にたいへんだったようです。

完成された作品も、いろいろな種類のものを三十以上提出しないと一単位がとれないのです。

このように、本気で取り組まないと単位がとれないというのは、アメリカの大学はどこも同じでした。

わたしは、小さい頃から合唱をやっていたので、比較的らくだったのですが、最後に演奏会をやることになりました。もちろん暗譜でソロまでやらされたので、案外たいへんでした。

でも、楽しい思い出でした。

9月から、本格的に勉強が始まったのですが、そのことにかんしては次回にまたお話したいとおもいます。


秋学期はじまる

9月になって、アメリカの大学の秋学期が始まりました。

大学のアドバイザーのところに行ったら、English Ⅰ (イングリッシュワン)、心理学、音楽鑑賞、カレッジイングリッシュ、声楽、数学Iの6科目をとるようにと言われました。

日本の大学の感覚からすると、週に一回ずつなので、バカにらくに感じたのです。

「こんなに少なくていいの?」と、おもいました。

しかし、アドバイザーによれば、これだと少し多すぎるかもしれないとのことでした。

なぜなら、アメリカ人でも5科目しかとってない人が、大半だったからです。

とにかく、こうして授業が始まりました。



English Ⅰについては、ひじょうに難しい内容でした。
アメリカ人の大学生のための英語なので、読む量が多く、内容もとても難しいものでした。

それなら、文法なら問題ないかといえば、これもたいへんだったんです。

たとえば、よく関係代名詞で2つの文をひとつにまとめる、ということはありますよね?

でも、それが5つ、あるいはそれ以上の文章でやれというのです。

ただつなげるだけならかんたんですが、そうではなく、一度分解してひとつの整合性のある文章に組み合わせなければならない、という課題だったのです。

それが、日本人のわたしにはとても難しいもので、そのときわたしは英語を本当の意味で操ることができない、ということに気がつきました。

同様のことは日本語ではできるのに、なぜ英語ではできないのかと、おもったのです。

アメリカ人の友達に聞いたらそんなに難しくないよと言われ、あっという間に問題を解いてしまったのを見て、ショックを受けました。

でも、よく考えてみれば当たり前のことだったんです。

だって、そのアメリカ人はネイティブなのですから・・・



心理学。

電話帳みたいに分厚い教科書でした。
これを3ヶ月で読みきったのです。
心理学教科書

通常、日本では1年以上かけて読むものなので、少し驚きました。
しかし、心理学だったら内容がわかるので、油断していました。

2週間で、すぐ最初のテストがありました。

選ぶ問題だったので、だいじょうぶだとおもっていましたが、テストがかえってきたら評価が「C」(AからDまででAが最上)でとても驚きました。悪い意味で。

その後がんばって勉強しましたが、5回のうちBが3回で挽回したかなとおもったのもつかの間、最終試験でCをとってしまって、全体評価がCになってしまいました・・・

これでは、心理学でやっていけるのかどうか、とても不安になりました。(わたしの専門は、心理学だったので)



次、カレッジイングリッシュ。

これは、それほど難しくありませんでした。
なぜかというと、英語が苦手なアメリカ人や留学生のためのクラスだったので、比較的らくだったのです。

それで、評価はBでした。



音楽鑑賞について。

これは、音楽を聴いていれば単位がとれるとおもってとったのですが、大間違いでした。

まず最初に、先生から500曲の楽曲リストをもらいました。
それを、CDライブラリーで借りてきて、全部聴くようにといわれたのです。

テストは、その曲のどこかを流した後、その題名をあてなければいけないというものです。

授業中は、曲を聴くというよりは、音楽史のテキストを読み、それについての解説がほとんどでした。

定期試験は論文のテストもあり、たとえばスメタナの「モルダウ」という曲の中で国民楽派的な要素がどこにあるか述べなさい、といったような問題がでたのです。

もちろん英語ですし、ほとんどお手上げでした。

曲あてのほうも、結局3つくらいしかわかりませんでした。
たとえわかっても、英語で題名が書けないので苦しかったです。

結果としては、散々でした。
それでも、評価はBだったのでよかったのですが。



数学について。

数学は、とてもかんたんな内容だったので、問題なかったです。

だいたい中学校の数学程度でした。
したがって、評価はAでした。



最後の声楽。

これは、個人レッスンでした。

先生はわたしのことをかなり歌える人だとおもって、すごく難しい課題を要求してきました。

シューベルトの歌曲で、ドイツ語で歌わなければなりませんでした。
しかも、「野ばら」といったようなメジャーな曲ではなく、ドイツリートのよく知らない難しい曲でした。

でも、なんとか覚えて歌いました。

全部で、6曲やりました。
たとえば、「ドン・ジョバンニ」のアリアや、よくわからない英語の歌曲などでした。

最後のテストは、全曲を暗譜で歌えというものでした。
もちろん暗譜で、しかもピアノ伴奏なしで歌いなさいと。

最後にコンサートにでなさいといわれ、全学生たちと全先生たちの前で3曲歌いました。

それとともに、またドイツリートの詩の分析のレポートを提出しなければいけませんでした。

こだけやっても、評価の結果はBだったので、驚きました・・・
アメリカの大学では、Aをとるというのは至難の業ということを、身にしみて感じたのです。



こういったかんじで一学期が終わり、ほんとうにほっとしました。
同時に、これから先の不安が大きくもなっていったのです。


冬学期がはじまる

冬学期は、できるだけGPA(成績の平均点)を上げようとおもい、あぶない科目は選択しないようにしました。

今学期は、EnglishⅡ、代数学、それとGPAを上げるために基礎数学を選択しました。
あと、音楽鑑賞Ⅱ、声楽をとりました。

発達心理学を選択しようとおもったのですが、内容的に難しかったのでとるのはやめました。
ほんとうはとりたかったのですが、ちょっと危険なのでとれなかったんです・・・

アメリカの大学は、このGPAがとても重要です。
したがって、よく考えて科目を選択しないとあとでたいへんなことになってしまうんです。

留学生だからといって、手加減しないんですよね・・・
ですから、ほんとうに神経質になってしまいました。

でも、この学期はかなり慣れてきたので少し余裕がでてきました。

学長のレセプションによばれて、歌をうたったり、学長の自宅に招かれて日本の歌をうたったりしました。
とても評判がよかったので、すこし自信になりました。

こういうことができる余裕がでてきたのです。

EnglishⅡは、あいかわらず難しくて、とてもたいへんでした。
なんとか評価Cを確保するのが、精一杯でした。

しかし、このEnglishⅠ・Ⅱを評価Cでクリアしたことは、あとになって大きな意味をもつことになるのですが、それはまた後のおはなしにしましょう。

基礎数学は、ほんとうにかんたんで、小学校の高学年か中学校の低学年くらいのレベルでした。
ですから、なんにも難しくありませんでした。

代数学は、すこし数学的だったので、おもしろかったです。
でも、高校の数学ⅠBくらいのレベルだったので、内容的には問題なかったです。

音楽鑑賞Ⅱは、秋学期とほとんど同じようなかんじでしたが、最後のテストにオーケストラの図を書いて、そこにできるだけ多くの楽器の名前を書き込むという問題がでました。

打楽器の名前が、とても多いんです。
それらの名前を覚えるのが、ほんとうにたいへんでした。

留学生は辞書持ち込み可だったのですが、さすがに辞書には打楽器の細かい名前などは、ふつうの辞書にはでてないのです。

でも、なんとか書いて提出しました。
そうしたら、テストで94点をとり、クラスで一番でした。

いい意味でとても驚き、これがはじめて数学以外でAをとった科目になりました。

声楽は、ますます難しい課題になってしまって、たとえばシューベルの「冬の旅」などをうたいました。

また、「冬の旅」全曲の詩についての分析(アナリーゼ)を課題にだされて、ほんとうに頭が曲がるくらいにたいへ
んでした。

最初は、原曲はドイツ語なのでその詩を英語に訳せばそれで済むのかとおもい、それを提出したのですが、これではまったくダメだと言われてしまいました。これでは分析にはならないといわれて、再提出になってしまったのです。

アメリカ人の友達にきいても、「冬の旅」の詩の分析なんて難しすぎてわからない、といわれてしまいました。

どうしてもうまく書けなかったので、とりあえず自分で考えてそのレポートを出しました。

先生は苦笑いをして受け取ってくれました。
それで、歌の実技と合わせて、結果は評価Bでした。

すこしがっかりしたのですが、考えようによってはよかったのかなとおもいました。

この学期は、Aが3つにBが1つ、Cが1つだったので、GPAは目標の3.0を越えたのはよかったかなとおもいます。

これで、テネシーの大学でのお話はおしまいです。


勉強以外で気づいたこと

一年目をふりかえって、アメリカ生活で気づいたことを書いてみます。

テネシーの大学では、週末にホームステイができるプロブラムを用意してくれました。
したがって、アメリカ人の生活を体験することができました。

わたしがお世話になった家は四人家族で、子供が二人いる四十代くらいの平均的な家庭でした。
両親とも、たぶんどこかに勤めていたとおもいますが、そういう仕事のはなしはいっさいしませんでした。

ミシシッピ川の中に、アミューズメントパークがあって、そこに子どもたちといっしょに連れていってもらいました。
ミシシッピ川というのは川というより湖のようでした。そういう川の中洲にそのような施設があるということを見て、とても驚きました。

ご主人が船をもっていたので(船といっても小舟)、船でクルーズして釣りをしました。釣れるのは、キャットフィッシュ(ナマズ)でした。
それを揚げてみんなで食べるのですが、どてもおいしかったです。
日本ではナマズはあまり食べませんが、テネシーではもっともポピュラーな魚で、ほとんどの人が食べます。

驚いたのは、みんな敬虔なクリスチャン(プロテスタント)が多くて、みんな神様を信じていました。
それで、わたしも協会にいくようになりました。

子どもたちのピアノの発表会も、教会で行われていました。
日本とまったく違うのは、とてもフランクな雰囲気で、子どもたちも自由にのびのびとピアノを弾いているところでした。

その中に、まだ初心者で指一本しかつかえない子がいたのですが、どうどうときらきら星を弾いていました。
終わったら大きな拍手をもらっていました。
お母さんも、とても満足そうでした。

日本では、まだぜんぜんピアノが弾けない子が人前で弾くことは、恥ずかしいとおもうかもしれませんが、アメリカではそういったことがないということがとても印象深かったです。

プログラムもはっきりしていなくて、自由に弾きたい人が弾いているというかんじでした。
急にアドリブで連弾をする子供もいて、雰囲気がほんとうに自由でした。

きちんと練習をしていないのに、なぜすぐに弾けるのかなという疑問がありました。
もしかすると、基本的な音楽性が高いのかなとおもったりもしました。

全体的な雰囲気が、日本のピアノの発表会と違っていたのが印象深かったです。
そして、それをみんなが楽しんでいるというところが、勉強になりました。

わたしも日本の歌をちょっと歌ってみましたが、とても喜んでくれました。
それがきっかけになって、いろんな教会で歌うようになったのは、とてもおもしろかったです。

アメリカの学生生活

一年目を振り返って、アメリカ人の若い人たちの行動で気がついたことを書いてみます。

テネシーの田舎の大学であったせいか、素朴な人が多かったと思います。日本のことなどほとんど知らない人たちでした。「日本はみんなで自動車つくっている国でしょう?」とか「日本は中国の一部でしょう?」という具合です。

レベルは平均的なリベラルアーツの大学でしたが、学生たちはとてもまじめでよく勉強していましした。したがってクラブ活動をしている学生はほとんどいませんでした。もちろんチアリーダー部やバスケット部はありましたが一般の学生が入れるレベルではなく、セレクションがありました。

ほとんどが寮に住んでおり、自宅から通っている学生はいませんでした。パーティーなどは思ったよりありませんでした。ダンスパーティーはありましたが、パートナーを同伴しなければ会場にも入れてくれないのには驚きました。

それでも学生達は大学生活を楽しんでいたようです。
私のような留学生は勉強もきついし余裕がないので、なかなかアクティビティには参加できませんでした。しかしこれでは友達ができないので、思い切って合唱団に入ることにしました。幸いテナーが足りなかったので入部することができました。そこで10日間の演奏旅行に参加したのですが、これはとても良い経験になりました。

その時わかったことは、基本的には日本人もアメリカ人も同じ人間であるということです。いつの間にか人種の差という事は考えなくなっていました。

このような考え方になったのは、とても良かったと思っています。


1年目を終えて

1年目を終えて、2年目をどうするかという問題が出てきました。このままテネシーにいて2年目も単位をとり、日本の大学で取った単位を互換させて卒業するか、1年で切り上げて他の大学院に行くかという問題です。

そんな時アトランタのオグレソープ大学に教師のための大学院(マスターコース)があることを知り調べてみました。すると1年で修士号が取れ、しかも州から補助金が出ているため授業料が一年で10万円ほどという格安のものでした。

TOEFLは550点が必要でしたが、私はEnglish I,IIをとっていたので 免除になったのです。
English I, II とは、いわゆるFreshman English というもので、これをC以上の成績でとればTOEFLは免除となる大学は多いです。

早速申し込んでみたところ、アクセプトされた(合格した)ので、アトランタに行くことにしました。

この時は上手くいったと思ったのですが、後から考えてみるとテネシーの大学を卒業して(学士の学位をとって)、その後他の大学院へ進学したほうが良かったのです。

わたしはもう、日本の大学と大学院を卒業していたので、学士はいらないとおもっていたのです。しかし、その時は学士(BA)をとる重要性がわからず、できるだけ早く大学院にいきたかったので、アトランタの大学院にいくことを決めてしまいました。

ジョージア州 アトランタの大学

アトランタに着いて

アトランタに着きました。アトランタはジョージア州の州都であり南部では最も大きな町のひとつです。オグレーソープ大学は日本では知られていませんが、ジョージアでは良い大学のひとつでした。大学は9月からなので、夏休みの間、ジョージア州立大学の英語(作文)のクラスをとることにしました。

このクラスは基礎からしっかり英語の論文の書き方を教えてくれるのでとても役に立ちました。
あるとき先生が学生の書いたエッセイを二つ並べてOHPに写して学生達に提示しました。

すると驚いたことに、一つは私の書いたものでした。先生は「このエッセイはとても対照的なのでみんなに見せることにしたが、こちらのは(私の)は型(フォーム)はできているが、内容はおもしろくない。もう一つのは型はできていないが、内容は面白い。どちらが良いエッセイだと思うか?」と聞きました。

大半の学生達は内容が面白いほうが良いエッセイだといいました。しかし、先生は型(フォーム)ができている私の方が良い作文だと言ったのです。みんなは意外な顔をしていましたが、「大学での論文を書くときに何よりも大切なのは型(フォーム)である。」と言ったのは驚きました。しかし、とても印象に残り、その後の勉強にとても役に立ったことを覚えています。

英語は1年経ってもなかなか上達しませんでしたが、ある現象に気づきました。それは英語がだんだんわかるのではなく、段階的に理解できるようになっていくことでした。まるで数学のガウス平面のようにです。また、本当に英語が身に付くようになるためには、思ったよりも時間がかかるものだという事を実感し始めていました。


大学院の授業が始まる

オグレソープ大学の授業が始まりました。英語教育、算数教育、教育統計の3科目を取りました。大学院では一学期で3科目ほど取るのが一般的です。

この3科目の中で問題は英語教育でした。内容的にはそれほど難しくはないのですが、日本人の私には不可能に近い課題が出るのです。

たとえば、子どもに面白いためになるような童話を書けというものです。これは一見簡単そうに見えますが相当の英語力を必要とします。
色々な童話を調べて書いてみたのですが、どうしても原作に影響されてしまい似た表現、内容になってしまうのです。

担当の先生はこれをとても問題視し授業を取ってはいけないと言い出しました。大学院の主任教授にこの事を伝えてしまったので、全科目キャンセルになってしまったのです。このときはさすがにショックでした。算数教育と教育統計は問題なかったのでその事を言ったのですが聞き入れてもらえませんでした。

考えてみたらここの学生は全員地元の学校の教師で、留学生は私一人でしたし、内容的にも外国人留学生には合わないものであったかもしれません。

そうこうしてるうちに秋学期が終わってしまいました。


年が明けて

年が明けてアメリカに来て2度目の新年がやってきました。しかし、私の心は晴れませんでした。
それは、大学のことがはっきりしなかったからです。とりあえず学校へ行ってみました。すると、大学院の課程のクラスは取れないとの事、学部(under graduate)ならクラスをとっても良いと言われてしまったのです。

他大学の大学院を調べてみると、TOEFL 550~600点以上かアメリカの大学で学士(BAまたはBS)を取ることを条件にしているところばかりで困ってしまいました。テネシーの大学にいればもうすぐ卒業だったものですから、かなり後悔しました。

しかし、がっかりしていても仕方がないので、オグレソープ大学で勉強することにしました。アドバイザーに相談すると、アメリカ、イギリスの短編小説を読むクラスと代数学を取れと言うのでそうすることにしました。

数学のほうは問題なかったのですが、短編小説を読むクラスはとても大変でした。課題が5回くらい出てそのたびに文芸評論を書かなければならないのです。アメリカ人の学生にとっても難しいらしく勉強会を開いていました。
だから、私にとっては本当に至難の業でした。特に、ウィリアム フォークナーの小説は解釈がとても難しく頭が曲がるようでした。

でも、この経験は私にとってかえって良かったと思いました。なぜなら知らないうちに英語が少しできるようになっていたのです。英語をそのまま英語として、とらえることができるようになっていたのです。

大変な一年でしたが、楽しいこともありました。合唱団に入部しそこの学生達と交流したり演奏会や演奏旅行に行ったことは良い思い出になっています。芸は身を助けると言いますが歌をやっていて良かったと思いました。


エモリー大学へ

エモリー大学へ

3年目になりこのままオグレソープ大学にいても仕方がないので次の手をかんがえていました。すると知り合いの先生がエモリー大学に推薦してくれると言うのです。エモリー大学は南部ではもっとも良い大学の一つです。
彼によると文理学部の大学院のなかに教育研究の学科があり、そこは比較的倍率が低いというのです。

早速申し込んで(アプライして)みました。すると、1年間の特別コースなら良いとの事でした。
少し不安でしたが入学することにしました。

エモリー大学は、南部では最も歴史のある私立大学で、全米でもトップクラスの大学です。特に医学部が有名です。
場所はアトランタ郊外のストーンマウンテンと言うところあります。大学全体が町のようなつくりになっていました。町からは通えないので寮に入ることにしました。

寮は基本的には一人部屋なのですが、キッチンとお風呂は二人で共有のものでした。私が指定された部屋に行くとそこにはルームメートのジョンがいました。
このジョンとのエピソードは、いろいろなものがあるのでそれは後で書くことにします。

このようにエモリー大学の生活が始まりました。

エモリー大学での授業

エモリー大学での授業がはじまりました。教育研究科棟に行ってみると学科長のアドバイザーの先生が待っていました。

そして、科目を決めたのですが、教育統計(1) と算数教授法(1)の二科目だけしか取ってはいけないと言われました。一科目で4単位なので、単位としてはそんなに少なくはないのですが、少し拍子抜けしてしまいました。

勉強は、教育統計は研究室でやるとのこと。待っていると、私を入れて学生がたった4人しかいません。この科目はこれで全員でした。

算数教授法は、20人くらいいたので少し安心しましたが、今までで一番レベルが高い大学の大学院コースなので緊張しました。

教育統計は以前にも取ったことがあるので、自信がありましたが、それは甘いことがすぐわかりました。4人しかいない学生に先生は、矢継ぎ早に質問をするのです。しかも答えられないと減点すると言うのです。1時間半の講義の間ずっと緊張しっぱなしです。

今まで取ったクラスの中では最もきつい授業でした。アイスランドから来ている学生は、耐え切れないのか、体調を崩して休んでしまいました。すると、3人になってしまったのでますます大変になると言う具合です。

3人とは、韓国から来ている女子学生2人と私で、全員アジアからの留学生になってしまいました。もちろん、学科にはアメリカ人の学生もいたのですが、このクラスが難しいのを知っていて誰も取っていなかったのです。

課題も多く、それだけでくたくたになりましたが、テストはもっときついものでした。先生の出した課題をコンピュータ室で作成するのですが、その長さが半端ではないのです。6時間くらいかかるものでした。マラソンのような感じがしました。

この授業は、本当にきつく終わっときはほっとしました。評価はBでしたが、とてもうれしかったことを覚えています。

これに比べたら算数教授法は、ずっと楽で、内容も楽しいものでした。色々な文章題をみんなで解いていくのですが、とてもよくできていてクイズのようで非常に勉強になりました。
このときの資料は取っておけばよかったと思います。

こちらの評価は幸いにもAでした。こうしてあっと言う間にクリスマスがきてしまいました。アメリカでは時間があっという間に過ぎていくように感じました。


3年目の年を迎えて

また、新しい年がやってきました。
アメリカの大学は、年が明けるとすぐ授業が始まります。また、勉強づけの生活がはじまりました。

取った科目は、教育統計(2)と算数・数学教授法(2)で秋学期の続きの内容でした。
授業の要領は前の学期と同じなので慣れてはきましたが、その内容はかなり難しくなっていました。
特に、教育統計(2)は、ますますきつくなってきました。アイスランドからの学生はついにこのクラスを取るのを止めてしまいました。

アメリカの大学は、クラスの単位ごとに授業料を払うので止めること(ドロップする)ことは滅多にないのですが、よほどきつかったのだと思います。

私も、ついにチューター(家庭教師のようなもの)をつけて課題をこなすことに集中しました。しかし、せっかくお金を出して教えてもらった課題が、間違っていたり、難しくてわからないといわれてしまったりして機能しなくなってしまったのです。
結局、自力でやらなければならなくなり本当に大変な日々でした。

もう一つの算数・数学教授法(2)は、楽しかったのですが、同じく内容的に高度になってきて
こちらにもチューターをつける始末になってしましました。

この時はさすがに自己嫌悪に陥り、そこから抜け出すのが大変でした。英語力の問題ではなく、内容的な問題だったので余計落ち込みました。
でも、自分のペースで、ゆっくりやればいいのだと思い直してがんばりました。

これだけ頑張ったのに、教育統計のクラスではCをとってしまいました。もう一つの数学教授法はAだったので大丈夫だと思っていたら、ある日学科長から手紙が来ました。

手紙が来るなんて、あまりないことですから恐る恐る封を切ってみると、私の成績がいまひとつなのでもう一年スペシャルスチューデントとして勉強しなければならないと書いてあったのです。この時は本当に驚きました。GPA(成績平均点)は、大学院生の基準である3,0以上だったので安心していたのです。

これではいつになったら卒業できるのかわかりません。博士号どころか修士(マスター)もいつとれるのか、めどが立たなくなってしまったのです。
さすがにこの時はあきらめて日本に帰ろうかと思いましたが、ここであきらめたらいけないと思いと考え直しました。

そんなとき、数学教育の先生が意外なことを言い出したのです。なんとニューヨークのコロンビア大学に推薦してくれると言うのです。
私の留学生活も、またあたらしい展開になっていくのです。


アトランタでの生活(ルームメートのこと)

エモリー大学では、大学の寮にいたのでジョンというアメリカ人とルームメートになりました。
彼はフロリダ出身でMBA(経営大学院)の学生でした。少し気の弱いところもありましたが、とてもいい人でした。大学で日本語を勉強していたので日本に関心が深いようでした。

驚いたのは、彼はご飯を食べる以外ほとんど勉強していました。キーボードを打つのが苦手らしく、レポートを作成するのにひどく時間をかけていました。アメリカ人は小さいころからタイプを打っているのでみんな早く打てるのですが、そうでない人もいるのだと思いました。

また、非常にお金を節約していました。クーポンをあつめてできるだけ安く生活しようとする努力には、頭がさがる思いでした。一般的にアメリカ人の学生は無駄使いはしない人が多いのですが、彼のはその平均をはるかに上まわっていました。最初はただのケチかと思っていたのですが、よく見ると非常に経済観念が発達している人ということがわかり、勉強になりました。

彼にはジニーというガールフレンドがいて、そのぞっこんぶりには驚かされたり、ある意味こっけいで面白かったです。テープに彼女の名前を100回以上録音して送ったりしていましたが、そんなことをしたら、かえって嫌われてしまるのではないかと、心配になりました。

ある日、彼から週末3日ほど空けてくれないかとの申し出がありました。理由を聞くと彼女が来るからと言うのです。ちょっと勝手な提案でしたが、ホームステイの家に行くことができたので問題ないと言ったら本当に嬉しそうな顔をして何回もお礼を言ってくれました。

金曜日に彼女が来ると言ってたので、授業が終わって挨拶をしてからホームステイの家に行くつもりでした。寮の部屋に戻ってみるとやけに静かなのです。彼の名を私が呼ぶと、裸の彼があわてて出てきました。まだ昼間だったのですがもうHをしていたようです。少し驚きましたが、何かほほえましい感じがしました。

彼女のジニーは、思っていた以上にきれいな人で、フロリダ大学の学生でしたが、モデルのバイトもしているとのことでした。これならジョンが好きになるのも仕方がないと思いました。
彼女は心理学を専攻していて、将来はPhD(博士号)を取りたいと言っていました。ジョンは彼女の前ではそれはとても良いことでだから応援すると言っていましたが、いないところではPhDなんか取られたら、結婚も遅くなるし第一お金がかかるから困る、と言っていたのですこしがっかりしました。

ジニーは何回か来ましたが、その後二人がどうなったかはわかりません。きっとうまくいったとおもっています。

ジョンはその後卒業して大手の投資銀行に就職しました。そのときの嬉しそう顔はいまでもよく覚えています。


カルチャーイベントに参加して

アトランタのエモリー大学では、毎年学生達がブースをつくり、各国の文化を紹介する催しがありました。

日本人留学生は5、6人しかいなかったので、大変でした。簡単なブースをつくりそこに日本のお菓子や、お茶をおいて振舞うことにしました。それだけではさびしいので、習字の上手な人にアメリカ人の名前を漢字で書くというパフォーマンスをしました。
また、私は創作折り紙を知っていたので、大きな紙で般若のお面を作って並べました。
これは大変評判が良くたくさんの人が集まってきました。

問題は各国で何かステージの上でパフォーマンスしなければならないことでした。日本人ではだれもやる人がいないので、出るのを止めようかとの話になりましたが、主催者側はどうしても出なければならないと言うのです。

そこで、私が日本の民謡と、歌曲のメドレーをやると言ったらそれはとても良いアイディアだと言うことで、歌うことになりました。

結果は予想外に良い反響で、驚きました。一方的に歌を聴くだけではなく、手拍子などを入れて聴衆と一緒に楽しむようにしたのが、良かったようでした。

これがきっかけになって、アトランタの学校や教会から、毎週のように電話がくるようになり、いろいろな場所で歌を歌いました。

芸は身を助けると言いますが、歌をきっかけにたくさんの人と知りあえたし、文化交流にもなったのでとても良かったと思います。

アトランタでは勉強のほうは壁につき当たってしまい大変でしたが、アクティビティのほうではとても楽しい時を過ごすことができました。

アメリカ人は、新しいもの、楽しいものをすぐ受け入れて楽しむ気質があるのと、文化的なものへの評価が高いということを知りました。


コロンビア大学

ニューヨークへ飛ぶ

数学教育の先生から推薦状を出していただいたので、すぐ、ニューヨークのコロンビア大学を訪問することにしました。

アメリカの大学は推薦状がかなり利くのですが、それでも半信半疑でした。
アポイントメントを取って、学科長の教授と話しをすることになりました。すると、英語の点数が少し低いけれど後は問題がないので、入学を許可すると言うのです。むしろ入学して欲しいような感じでした。

後でわかったのですが、彼は日本の教育に興味があり、彼の研究を進めるために私のような学生が欲しかったようです。ただ、併設の語学学校で英語をブラッシュアップすることが条件でした。

夏学期から授業が取れるとのことだったので、すぐインターナショナルハウスという寮の手続きをして、アトランタにいったん戻りました。
もう、追い込まれていたので、こんな逆転が起こるとは本当に信じられませんでした。でも、頑張ってきて良かったと思いました。

しかし、反面これからついて行けるか不安も同時に出てきました。
そんなことを考えていても仕方がないので、ここは一発頑張るしかないという気持ちでアトランタを後にしました。後1日しかエモリー大学に寮には居られなかったので、本当にギリギリのところだったのです。

コロンビア大学に入学する

コロンビア大学で勉強することになりました。あわただしくニューヨークに移り、直ぐに夏学期が始まってしまいました。コロンビア大学は、正式には Columbia University in the City of New York といいます。

コロンビア大学はニューヨーク市にある私立大学で、東部の名門校アイビーリーグ校の一つです。1754年、英国国王ジョージ2世の勅許状によってキングズ・カレッジKing's Collegeの名で、アメリカで5番目に創設された大学です。

1784年にコロンビア・カレッジと改称されましたが、1896年に、医学部、法学部、工学部のプロフェッショナル・スクールや大学院課程の設置とともに、コロンビア・ユニバーシティと称するようになりました。現在も学部課程のコロンビア・カレッジは一般教養教育の開拓者的存在で、その「現代文明論」や「人文学」の教養カリキュラムはとくに著名です。

また、21歳以上の成人を対象としたSchool of General Studiesや、コロンビア・カレッジ、学術系大学院、国際関係学ならびに芸術学大学院などがあります。大学院レベルでは、建築学、法律学、MBA(経営学)、医学、ジャーナリズム、社会福祉学などのプロフェッショナル・スクールがあります。

ほかに提携学部として、女子大(バーナード大学)、ティーチャーズ・カレッジ(Teachers College)などがあります。

学生数は2万3650人ほどですが、学部教育の中心であるコロンビア・カレッジの学生数はアイビー・リーグのなかでもっとも少ない4000人ほどにすぎず、大学院レベルの学生が圧倒的に大きい比重を占める総合大学です。常勤教員数3200人ほどです。

私が入学したティーチャーズ・カレッジ(Teachers College、Columbia University)は教育系大学院としては全米で最も古くランキングも1位です。学生数は5000人ほどでした。


コロンビア大学の授業 ~夏学期が始まる~

夏学期が始まりました。
取った科目は、ピアジェの発達心理学(前操作期(4ー6歳の子どもの段階))、BASIC(初等コンピュータ概論)、声楽と英語のクラスでした。

難しいかと心配していたのですが、以外にそうでもなかったのです。

心理学のクラスは非常にわかりやすく説明してくれました。ただ、実際に幼稚園に行って調査をしなければならなかったので、困ってしまいました。でも、先生に聞くと丁寧に幼稚園を紹介してくれました。とても親切なのには驚いてしまいました。

コンピュータのクラスは少したしへんでしたが、何とかなりました。

声楽は単位を稼ぐ意味で取ったのですが、担当のA先生が、私をとても褒めてくれました。それからずっと声楽の個人レッスンを取ることになるのですが、この事は別のトピックでまとめてお話したいと思います。

英語のクラスは、今までの経験で慣れていたので問題なかったのですが、大学院ではレベル10にリーチすることを要求されました。

全体としては、思っていたよりも難しくなく、楽しく勉強できました。かなりほっとしたことを覚えています。

コロンビア大では、今まで日本やアメリカの大学院でとった単位を認めてくれたので、本当に助かりました、結果的には卒業単位90単位のなかの45単位まで認定されたので、今までやってきたことが無駄ではなかったと思いました。

心配していた単位もすべてAが取れたので本当に嬉しかったです。

余裕が出て来たので、学内で何か働けないかとアルバイトを探していたところに日本語学科でティーチングアシスタント(TA)を募集していました。

書類審査と面接、筆記試験がありましたが思い切って受けてみました。
かなり倍率も高く、難しかった(筆記試験では江藤淳の夏目漱石論を英訳するのが出ました)のですが幸いにも合格しました。
年間30単位分と月に円に換算して13万円の給与も支給されるので条件としてはとても良いものでした。コロンビア大学は、授業料が高いので本当に良かったです。


コロンビア大学の合唱団

夏休みの終わるころ、コロンビア大学のグリークラブの団員募集のポスターを見かけました。
入ってみようと思い詳しく見てみると、なんとオーディションがあるのです。またグリークラブといっても混声合唱でした。
200年以上前からある合唱団で当時は学生は男だけでしたので、男声合唱でした。その後、女子大が開学し、ガールズグリークラブができて別々に活動していました。
しかし、私が留学したときは混声合唱団として一緒に活動してしました。総勢150人あまりの大合唱団でした。

【コロンビア大学応援歌(吠えろライオン)男声合唱】

オーディションは、発声でどこまで声が出るか範囲をみることをはじめに行いました。その後、いくつか和音をピアノで弾くので、その2番目の音を出すように言われました。
最後は初見視唱でした。全くしらないアメリカの曲を歌えというのですが、英語を読もうとすると音が取れません。仕方がないので「ウー」でいいかと聞いてみたら良いとのことでしたのでそれで何とか切り抜けました。

2、3日たったら、「おめでとうございます」という電話がかかってきました。たかが合唱団に入るのにずいぶん大袈裟だと思いましたが、後で聞いてみると落ちる人も多いとのことで驚いたことを覚えています。

練習は週二回でちゃんと出席をとりました。曲もオルフのカルミナブラーナとシューマンの合唱曲で、考えていたよりもレベルが高いものでした。

日本の大学の合唱団と一見似ていましたが、だんだんその違いがわかってきました。その点に関してはまた後で書こうと思います。


コロンビア大学の授業(秋学期)

日本語学科のティーチングアシスタント(TA)をすることになったお陰で15単位まで無料で取れるので、目いっぱい取ることにしました。
通常、アメリカの大学院では3科目(9単位)を取るのが普通ですが、私はできるだけ多く取ってみました。この頃になるとアメリカの大学の勉強の仕方に慣れては来ていたので大丈夫だと思ったのです。

実際やってみるとかなり大変でした。TAの仕事もあるし、クラブの練習もあるので思った以上に忙しかったです。
アメリカの大学はただ単位を取るだけではダメで、できるだけ良い成績を取る必要があるからです。まして私は博士の学位を取ることを目標としていたのでこれはかなりの冒険でした。

ただ、コロンビア大学のような大きな大学は、たくさんの講義が開講されていて、比較的楽に取れる授業もあったので、それを組み合わせて取っていきました。

こうやって、秋学期を乗り切っていきました。ピアジェの心理学(具体的操作期)、問題解決、算数教授法、声楽、英語をとりましたがすべてAでした。幸い英語コースもレベル9を終えることができました。
コロンビア大学の授業の特徴として非常に実践的な内容が多いことでした。デューイのプラグマティズムの伝統かと思います。また、大きな大学ですが大教室の授業は一つもありませんでした。これは。学部の授業も同様でした。

この頃になってやっとアメリカの大学に慣れてきて、自由に勉強ができるようになってきたようです。ずいぶん時間がかかるものだと思いました。もちろん個人差がありますが私にはそれが実感でした。それでもまだ英語はそんなにできるなったとは思えませんでした。


ニューヨークのクリスマスとお正月

初めてのニューヨークでクリスマスがやってきました。秋学期が終わってホッとしていたところで、少しニューヨークライフを楽しむ余裕がでてきました。

コロンビア大学では学生のために、ミュージカルやオペラ、大リーグなどのチケットを格安で売るサービスを行っていました。

通常50ドル以上するチケットが1ドルで購入できるのです。このサービスを使って色々なパフォーマンスを観にいきました。

一番多かったのはミュージカルです。レ・ミゼラブルなどは10回近く観ました。
はじめはミュージカルにはやや偏見があったのですが、実際行ってみるととても素晴らしく総合芸術だということがわかりました。

オペラも声楽の先生からチケットを頂いたので、よく行きました。先生からドミンゴを参考にするように言われましたが、なかなか上手くいきませんでした。

大リーグもこの方法で観にいきました。日本とはかなり雰囲気が違っていてそれだけで楽しめました。

ニューヨークはエンターテインメントに関しては世界一だと思いました。ただ、どれも夜のパフォーマンスが多く、やはり危険なためその点に関しては、かなり気をつけました。現在はだいぶ治安が良くなっていますが、私のいた頃はまだまだ危なかったのです。


コロンビア大学(春学期)始まる

どの大学でもそうですが、年が明けるとすぐ春学期が始まります。ここで15単位をとれば日本の大学の単位とあわせて60単位になるので、マスター(教育学修士)が取れます。とりあえずマスターをとれば少し安心ですので、これを目標に頑張ることにしました。

15単位取るのは大変ですが、前学期に上手くいったので同じ要領で単位を取っていきました。しかし、教育学の授業で少し失敗をしてしまいました。ペーパーの精度が低いといわれてしまったのです。書き直してもう一度出しましたが、評価はあまり良くなくBでした。

Bならば悪くはないのですが、博士号をとるためには、すべてAかAマイナスでなければ安心できないので少しショックでした。

統計は得意なので、確率と統計という科目を取ったらば、内容はほとんど確率ばかりでこまりました。それもかなり内容が難しく、中間テストを受けたときはほとんどわかりませんでした。

そのほかの科目は順調でしたので、とりあえずホッとしました。やはり油断してはならないと肝に言い聞かせました。


日本語を教えてみて

コロンビア大学の日本語学科で日本語を教えてみて色々なことがわかりました。

まず、アメリカ人に日本語を教えるのは、考えていた以上に難しいことです。

たとえば、「私は学生です。」と「私が学生です。」の違いを説明することです。

これは英語ならば I am a student.となり同じ表現となります。
しかし、ニュアンスが違うことは日本人にはわがりますが、アメリカ人の学生には
当然わかりません。

アメリカ人の学生はすぐなぜ、なぜ?と聞くのできちんと説明しなければ納得しない
のです。

一般的には「私は学生です」のほうは、自己紹介のようなときに自分の状況を説明
する場合に使い、「私が学生です。」は自分を強調するときに使うと教えるのですが、
それでも、学生たちは納得しません。

そこで私は、あることに気づいたのです。「わたしが学生です。」のほうはその前に
疑問文が来ることがほとんどなのです。

たとえば、「どなたがコロンビア大学の学生さんですか?」聞かれた場合その答えは
「わたしがコロンビア大学の学生です。」となります。

この説明でやっと納得してもらいました。

週3回の初級会話のクラスと、後は他の先生がたのヘルプで週3回ほど一緒に授業に出ていました。そのほかはテストやレポートの採点などでかなり忙しかったことを覚えています。

アメリカ人に日本語を教えることは本当に勉強になりました。日本語はもちろん英語についてもかなり深く理解していないと教えられないこと、初心者に教えるほうが、中級者、上級者に教えるよりもある意味難しいことがわかりました。

と言っても、上級者が易しいというわけではありません。
その当時、ドナルド キーン先生の上級日本語の授業では、赤松門左衛門の「女殺し油地獄」の原文をテキストにしていたのですが、これはさすがにコロンビア大学の学生でも難しかったようで、どんどん私に質問してくるのです。
「これはポルノですか?」とか「主人公の放蕩息子がなぜもてるのですか?」「近松がこの浄瑠璃を書いた意図はなんですか?」などです。

キーン先生に直接聞きづらいのでTAの私に聞いてくるのですが、対応が大変でした。

大変でしたが、良い経験になったと思っています。

大変なことだけでなく楽しいこともありました。
金田一先生の授業では毎回日本の歌を紹介したのですが、これはかなり評判になりました。荒城の月や浜辺の歌、椰子の実などの日本の伝統的な歌曲だったのすが、みんな興味深く聞いてくれました。

これがきっかけで、日本語学科のイベントで歌を歌ってほしいと言われて、ずいぶん何回も
歌ったものです。非常に楽しい思い出になっています。


コロンビア大学グリークラブ(定期演奏会のこと)

コロンビア大学のグリークラブでは、毎年12月に定期演奏会を行っていますが、私が在籍していたときもその時期が迫ってきました。後1ヶ月しかないのに、とてものんびりしているのです。

日本の大学の合唱団では、演奏会の1ヶ月前には曲はほとんど出来上がっていて後は仕上げの段階でした。

だから、私は、もうこのまま未完成な状態で演奏してしまうのかと思っていました。ちょっといい加減だなと思っていました。しかし、私の考えは間違っていました。あと1ヶ月を切ったところで急にみんなが集中し始めたのです。そして、曲も見違えるようにどんどん仕上がっていくのです。

日本では、こんな経験はありませんでしたし、今までのアメリカの大学の合唱団でもありませんでした。アイビーリーガーの底力を見る思いでした。

そして、演奏会にピークを持っていくのが、実に上手かったのです。もちろん、指導してくださる先生の持って行き方がうまいのも確かでしたが、歌っている学生たちのパワーと意志の力の賜物だと思いました。

もう一つ驚いたのは、日本円にして2000円以上するチケットが、あっという間に売れてしまって、団員である私でも取れなかったことです。

当然チケットノルマがあるものと思っていた私は、10枚くらいは、売ってほしいと言われると覚悟していました。それが、取れないなんて本当に驚きました。

知り合いの先生から2枚ほしいと言われていたので、何とか頼み込んで2枚取れたときはホットしました。でも席が一番後ろだったので、申し訳なかったとおもっています。
 
演奏会はリンカーンセンターで行ったのですが、とても上手くいきました。みんな演奏会を楽しんでいました。全然緊張している様子がなかったです。

ただ、練習しているときちょっとだけ嫌なこともありました。

曲の中にテナーのソロがあったのですが、白人のテナーの学生が歌いました。それが決まったとき多くの学生が、私のほうが良いから歌えと言うのです。また、先生に言いに行けとも言うのです。でも私はまだ入団したばかりだからと言ってそうはしませんでした。その時わかったのですが、応援してくれたのは、すべて有色人種の学生で、白人の学生は一人もいなかったのです。

少し人種問題が垣間見えるできごとでした。歌自体は私の方が上手かったかなと今でも思っています。でも、彼の方が絵的には良かったのも事実でした。


コロンビア大学のグリークラブ(演奏旅行のこと 1)

コロンビア大学グリークラブの次の大きなイベントは演奏旅行でした。毎年、カリフォルニアや、遠くはヨーロッパまで行くのです。

その年はプエルトリコに行くことになりました。私は、カリブにはまだ行ったことがなかったので参加することにしました。2週間あまりのかなり長い旅行でした。旅費のことを心配していましたが、ほとんど大学から出るとのことで驚きました。それでも、参加者は7割程度の100人ほどでした。それでも大人数ですけどね。

日本の大学の合唱団では、参加しない人を説得したりして大変でしたが、コロンビアでは全くそんなことはする様子はありませんでした。
ちょうど中間テストが終わった後の休みだったので、宿題が多く出ている科目もあって、勉強が気になる人は参加できなかったのです。
だから、旅行に参加する人も教科書をたくさん持っていく学生が多かったです。
日本の大学でも演奏旅行はしましたが、勉強道具を持っていくなんて考えられませんでした。

スケジュールはとてもハードで、2週間のあいだに6回ほどコンサートがありました。それもただコンサートホールで歌うだけでなく、とてもバラエティに富んでいるのです。というのは、サンファン(プエルトリコの首都)のコンサートホールでのコンサート、オールド サンファンでの街角コンサート(外で歌います)、ヒルトンホテルでのディナーショウ形式のコンサート、OBの別荘(とても大きかったです)でのコンサート、テレビの公開番組への出演などです。

この企画にはとても驚いたと同時に、感心してしまいました。日本の大学の合唱団でのただ小学校を回っていたのとは、大違いだったのです。

とても面白かったですが、同時に疲れてくたくただったのを覚えています。ちゃんとしたホテルに泊まれて良かったです。でも、同室のマイクは、朝は早くから近くのビーチへ泳ぎに行っていましたし、夜はディスコに行ってから、遅くまで勉強をしていました。寝ている私を見て「きみはレイジィー(だらしがない)だな。」と言われてしまいました。

決して寝坊していたわけではなかったのですが、学生達のパワーにはとてもついていけませんでした。年齢的には彼らの方が若いということもあったのですが、それにしてもみんな元気でした。
また、やるからには楽しもうとするアメリカの若い人たちのエネルギーには、大変頼もしさを感じ、アメリカの将来は明るいなと思いました。


コロンビア大学のグリークラブ(演奏旅行のこと 2)

留学生で、サークル活動や部活動に参加する人はほとんどいませんでした。それは、勉強がきつくて余裕がないことと、多くの団体がオーディションを行っていることに起因するでしょう。特に、日本人の場合は、全くといっていいほど聞いたことがありませんでした。

私は、確かに大変な面もありましたが、グリークラブに入って本当に良かったと思います。特に、演奏旅行に参加したことで、アメリカ人の若者気質を肌で知ることができました。

彼ら(彼女ら)のことでいくつか気がついたことがあります。それは以下のようなことです。

グリークラブには、制服があってコンサートのときはこれを着ることになります。全員同じ制服を着るのですが、何となくアメリカ人の学生には抵抗がある人が多いようです。自分なりに制服を工夫して着こなそうとしているのです。特に女子学生にそう傾向がありました。ワンポイントのアクセントをつけたりして他の人との違いを強調しているようでした。

日本の合唱団でそんなことをしたら、たちまち怒られてしまうでしょう。むしろ良いことのようにみんな行っていました。

また、旅行の最後に海岸でパーティーをしようと、団長の学生が提案しました。その時は、みんなは参加するかしないかハッキリしませんでした。何となく参加したくない雰囲気が漂っていました。この団長はクラブに8年もいる先輩です。日本だったらだれも逆らえないでしょう。
そして、最終日が来てパーティーの時間が来ました。しかし、だれも行こうとしないのです。結局、参加した学生は5人だったそうです。

次の日団長に聞いてみたら、5人しか来なかったけど、とても楽しかったと全く悪びれた様子もなく、明るく話すのです。参加者が少なかったことは、その後問題にもなりませんでした。

これも日本だったら、大変な問題になるでしょう。

また、面白いこともありました。自然とカップルがかなり多くできていたのです。それが旅行中はほとんどわかりませんでした。だから、私は、アメリカ人て、随分さっぱりしているなと思っていました。

しかし、ニューヨークに帰ってきて、旅行の反省会(反省することは全くない)をしたときに、みんなが、旅行中に出来たカップルを挙げだしました。なんと20組以上のカップルが出来ていたのです。そして、ベストカップルを決めたのです。その二人にはグリークラブのTシャツがプレゼントされました。

こんなことも、日本の大学の合唱団では全くなかったことなので、本当に驚きました。

このとき、旅行中のナンバーワン賞を決める投票を行ったのですが、何と私が1位になってしまったのです。これには、次のようなわけがあります。

旅行中、観光バスで少し遠くまで行ったことがあったのですが、その時バスの中で、一人ひとりで何かやることになりました。みんな芸達者な人が多く、それだけでも楽しかったのですが、最後のほうに私に回ってきてしまいました。そこで何かやらないとアメリカではまずいことを知っていたので、ドン・ジョバンニのテナーのアリアを思い切り大きな声で歌ってみました。

すると、凄い拍手が巻き起こり、みんなに受けてしまったのです。それがきっかけで私のことを認めてくれたような気がします。アメリカでは、やはり自分は出来るのだということを、見せるときは見せないとダメなのだと思いました。

とても良い思い出になっています。


ニューヨークでのアルバイト(1)

コロンビア大学に来たころには、かなり余裕ができたので、アルバイトもずいぶんするようになりました。しかし。外国人留学生は、大学内でしか働けないので、ほとんどが学内の仕事でした。

・大学の図書館での仕事

大学の図書館のアルバイトに応募してみました。私は、学校図書館司書教諭の免許をもっているので、そのことを応募用紙に書いたら面接をする事になりました。司書の免許は日本の大学のときにただ取っただけなので、図書館の知識はほとんどありませんでした。でも、アルバイトなので多分大丈夫だと思い、とりあえず図書館に行きました。

すると、これからテストをするというのです。そして、係りの人が試験用紙を持ってきました。それを見て驚きました。まるで大論文のような量のテスト用紙なのです。少なくとも50ページ近くありました。それを、1時間でやれというのです。

私は、自分は日本からの留学生なので、2時間はほしいと言ったらば、別室に通されてここで
解きなさいと言われました。

私は、少ない知識を動員して何とか答えを書きましたが、3時間くらいかかってしまいました。
しかし、その点に関しては何も言われずに、ただ「よくがんばったね」と言われて、むしろ褒められました。

結果は、3日後に伝えるので来なさいと言われました。

3日たって図書館へ行くと、意外にも採用すると言われました。当然ダメだと思っていたのでとても嬉しかったです。

学校図書館司書教諭の免許は、あまり考えないで取っただけでしたが、こんなところで役に立つとは思いませんでした。学内の仕事は、アメリカ人学生の中でも取り合いなので、留学生の私に回ってくることはあまりないのです。

どんなところで資格が役に立つかわかりません。留学したら遠慮しないで、積極的に言ってみたらいいと思います。ただ、免許のコピーと英文の翻訳は必要ですね。


ニューヨークでのアルバイト(2)

コロンビア大学の中でのアルバイトとしては、他にはゴミ拾いのバイトが印象に残っています。

仕事としては学内のゴミを拾うだけなので簡単なのですが、キャンパスを一人で拾わなければならないので、思いのほか大変でした。コロンビア大学のキャンパスは、アメリカの大学としては狭いのですが、一人で綺麗にするには十分すぎるほど大きいのです。実は、当初はあと二人いたのですが、思いのほか大変な仕事なのですぐ止めてしまったのです。

私は、一人で掃除するのはとても大変なので、時給を上げて欲しいと交渉したのですが受け入れてくれませんでした。月曜日の朝などは、キャンパスはゴミでいっぱいでした。
そこで、強力で軽い充電式の掃除機を買ってきて、それで掃除することにしました。大きなゴミは手で取らなければならないのですが、ずっと楽になりました。

その時一つ面白いことに気がつきました。いつも掃除機のゴミ入れの中にコインが入っているのです。それも1セントだけではなく、25セントや時には50セント硬貨が吸い込まれているのです。合計すると1日で5ドル以上になりました。

アメリカ人は小銭をポケットにそのまま入れる習慣があるので、いつの間にか落としてしまう人が多いのでしょう。それにしても、たくさん落ちていました。このバイトは、日本円にして1,000円以上もしたので止めたくはなかったのですが、さすがにきつかったので、そんなに長くはやりませんでした。それでも、半年以上は続けたと記憶しています。

もう一つのものとしては、ベビーシッターがあります。これも学校から紹介されたものです。男の人は、面接しても断られることが多いので希望者はあまり多くないのですが、なぜか私は子どもには好かれるたちのようで、やることになりました。3歳と5歳の男の子の兄弟でした。お母さんがコロンビア大学のMBAの授業をとっている間に面倒を見るのです。

元気でとても良い子達だったのですが、元気が良すぎてついていけません。くたくたになってしまうのです。そこで、彼らの好きなマンガのビデオ(トランスフォーマーズ)を借りてきてそれを見せることにしました。

幸い日本人向けのビデオ屋でバイトをしていたのでいくらでも借りることができました。見せるだけでは芸がないので、主題歌にあわせて振りをつけることを思いつき、子ども達の前でやってみました。すると、大うけして自分達もやりたいと言うので教えてあげました。すると疲れるまで何回もやっているのです。そして、2人は私の来るのを楽しみに待ってくれるようになりました。私が行くと、玄関で並んで待っているのです。本当にかわいかったですよ。こうなると、私もやりがいが出てきて頑張ったものです。

博士論文をかくために、忙しくなってこのバイトは止めたのですが、そのときの2人の残念そうな顔を今でもよく覚えています。しばらくたって、キャンパスでお母さんと偶然出会ったのですが、2人は、Satoにまた来て欲しいと言っているというのです。もう止めてから半年以上経っていたので、驚きました。

お母さんもどんなベビーシッティングをしたのかと私に聞いてくるのですが、上手く答えられませんでした。


ワンポイント日本語レッスン

定期試験が近づくと、学生達の質問が非常に多くなってきます。勤務時間内ではとてもさばききれませんでした。そこで、個人レッスンを受けるようにすすめました。他のTA(ティーチング アシスタント)の人たちが有料で行っていたのです。しかし、学生達は、レッスン料が高くて受けられないと言うのです。

コロンビア大学の学生は概して裕福な家庭の人が多いのですが、無駄遣いはしないようにしつけられている学生が多いのです。したがって、日本円にして自給2000円あまりのレッスン料を払うことはとてもできなかったのです。

そこで私は、一つ思いついたのです。それは、1ドルワンポイント日本語レッスンというものです。わからないところや疑問があるところだけワンポイントで教えて1ドル払ってもらうのです。

ポスターを作って、連絡ボードに貼ってみました。授業から帰ってみると私の留守番電話に20件以上のメッセージが入っているのです。そこで、ボードに次の日の2時にカフェテリアに集まるようにメッセージを書いておきました。

次の日カフェテリアに行ってみると、なんと30人ぐらいの学生が集まっているのです。私は、学生達の質問や疑問に一つ一つ答えていきました。
このレッスンは、評判になって学生達からはとても喜ばれました。ただ、TAの人たちからは、文句を言われましたが、学生の支持があるのでどうしようもありませんでした。

計算すると、私の自給もそんなに悪くはありませんでした。TAのみんなにはそんなに安く教えるなんて非常識だと散々言われましたけどね。

これがきっかけになって、たくさんの学生達と個人的に知り合いになり、パーティーなどに呼ばれることが多くなりました。日本語を教えることは簡単ではなく、大変なことも多かったのですが、たくさんの人と知り合うことができて本当によかったと思っています。

その後、日本でも外国人に日本語を教える機会を得ましたが、コロンビア大学での経験が基礎になっていると思っています。


インターナショナルハウスでのカルチャーイベントのこと(1)

コロンビア大学のそばにインターナショナルハウスという学生寮があります。ここには多くはコロンビア大学の学生が住んでいましたが、ニューヨーク大学などの他大学の学生も住んでいました。

ここでは、春と秋に大きなカルチャーイベントがありました。春のイベントは、出演したい学生のオーディションを行い、それに合格した人が出ることができるものです。私は、オーディションを軽い気持ちで受けてみました。最初、ディレクターの人に話したら、このイベントは、音楽、ダンスなどを専門的に勉強した学生が出るものだと言うのです。
だから、ダメだと言われたのですが、日本の歌を歌わせて欲しいと言ったら、一応聴いてくれることになったのです。

「浜辺の歌」を歌うと言ったら、その歌は前にここにいた日本の学生が歌ってとても好きな歌だと言うのです。そこで、歌ってみるととても気に入ったと言われ、そのイベントで「荒城の月」とともに二曲独唱することになりました。

当日、オーデトリアムに行ってみると、1000人以上の聴衆でいっぱいでした。私は、原則としてはどんなに広いところでも、マイクを使わないで歌うことモットーとしているので、声が通るかどうか少し不安でした。マイクを使うと、機械音になってしまうので本来の声の良さを損なってしまうからです。

何とか2曲歌い終えると、大きな拍手をいただいてホッとしました。日本の歌曲の良さを少しは理解してもらったような気がしました。その後、ニューヨークでもいろいろなところで歌いましたが、ニューヨークの人たちの厳しさも知りました。それは、つまらないパフォーマンスだと演奏の途中でも出て行ってしまうことです。

これは、ブロードウェイのミュージカルやメトロポリタンオペラなどのプロの演奏でも同じでした。私は、最初のうちは演奏している人に失礼だと思いましたが、これがニューヨークの流儀なのかと理解しました。

ニューヨークの人たちは、普段から世界最高のパフォーマンスに触れています。そのため耳が肥えていてとても厳しくなっているのでしょう。ニューヨークで成功すれば世界で成功すると言われますが、その一端を垣間見た気がしました。


インターナショナルハウスでのカルチャーイベントのこと(2)

私の住んでいたインターナショナルハウスでは、カルチャーイベントが年何回かありましたが、秋のイベントが、一番大きなものでした。
各国ごとに、ブースを作りその国の物産や、食べ物を売ったりするのです。それがとても凝っていて、各国のお国柄が良く出ていました。

また、各国順番にカルチャーナイトを催さなくてはならず、これが実に大変でした。日本はジャパーンナイト(Japan Night)をするのですが、なかなかやってくれる人が見つからず、また、どのような内容にするのかさえ、決まらないありさまでした。

他の国の人たちは楽しそうに準備しているのに、なぜ上手くいかないのかと、不思議に思いました。最終的にはまとまったのですが、プログラム的には問題があり、後半部分では、大勢の聴衆が出て行ってしまう有様でした。

私は、前半で日本の民謡を歌い、みんなに日本の伝統的な民謡を紹介したのですが、比較的うまくいきました。しかし、後半のパフォーマンスには、問題がありました。パフォーマンス自体はとてもレベルが高いものでしたが、少し独りよがりの演奏になってしまったようでした。私は、人前で演奏することの難しさを、痛感しました。

本当は、みんなで楽しむための催しなのに、なぜ仲良くできないのかと、私は考えました。

結論としては、日本人は楽しむのが下手だということだと思いました。また、個人個人のプライドが邪魔をして、それが悪い結果になってしまったようです。
色々ありましたが、全体としては楽しいイベントだったと思います。

インターナショナルハウスでは、そのほかにも小さなイベントが年に何回かあり、むしろこれらの方が楽しかったです。メトロポリタンオペラのバックステージツアーでは、普段は見ることができないところを、見学できました。また、ロングアイランドのビーチのツアーでは、友人とヌーディストビーチまで探検しに行ったことなど良い思い出になっています。
そして、ウイリアムスバーグへのツアーでは、古きよきアメリカの良さを満喫したものです。

インターナショナルハウスでの2年間は、今でもとても印象に残っています。


アンディ・ウイリアムスのコンサートのこと

先ごろ亡くなったアンディ・ウイリアムスは私の好きな歌手の一人です。彼の歌った「ある愛の歌」は特に好きな歌で、私もよく人前で歌います。

そんなわけで一度、実際に聴いてみたいと思っていました。すると、そのチャンスがやってきました。私のアメリカ人の友人(女性)に彼の大ファンがいたのです。私もファンだと言うと、アトランティックシィティでのコンサートに一緒に行こうというのです。

アトランティックシィティは、ニューヨークから80kmくらいのところにある街で、カジノで有名なところです。ポップスのコンサートもよく行われていました。私は、彼女の車に同乗してコンサート会場に向かいました。

驚いたのは、彼女のアンディ・ウイリアムスへの入れ込み方の凄さでした。チケットはすでに持っていたのですが、彼女はそれでは満足せずに、会場のスタッフにお金を渡してセンターのそれも一番前の席を取ってしまったのです。

席が良かったせいか、演奏は非常に良かったです。もちろん「ある愛の歌」の歌も聴きました。「ムーンリバー」などもとても良かったです。

http://www.youtube.com/watch?v=1NKLOprLVfg 「ある愛の歌」動画

http://www.youtube.com/watch?v=hdoDuUVSBWk 「ムーンリバー」動画

演奏が終わって、帰ろうとしたら彼女がまだ大切なことが残っているというのです。何のことかと思ったら、何とアンディに会いに行くと言い出すのです。そんなことができるのかと思っていると、彼女はどんどん楽屋のほうに入っていきました。私は、ただついていくしかありませんでした。

すると、アンディのほうから彼女に挨拶してくるのです。わたしは、彼女がそこまでのファンであるとは知らなかったので、驚いてしまいました。
一緒に写真をとったりして、直接話ができたことは本当に良い思い出になっています。私がアンディに「ある愛の歌」が好きでよく人前で歌うと話すと、ニコニコしながら「有難う!」と言ってくれたので、本当に嬉しかったです。

きっと、一緒に行った彼女は、アンディ・ウイリアムスが亡くなったことを、本当に残念に思っているに違いないと思います。


アメリカは本当に危険なところか?(1)

私が、アメリカにいるとかニューヨークで勉強していると言うと、日本の友人は決まって危なくないの?と聞いてきました。
アメリカの大学は、入るのは簡単なのでしょう?と言う質問と同じくらい聞かれます。

アメリカは、日本よりも危険なのは確かです。特に私がいた頃のニューヨークは危なかったです。私も、昼間にブロードウェイを歩いていたら、いきなり殴られてしまったことがあります。別にぶつかったわけでもなく、すれ違いざまでした。救急車で病院に行ったのですが、そこでは財布を盗まれてしまいました。後で病院代は請求されるし、救急車代もただではないのです。本当に散々でした。

アトランタにいるときも、引っ越してすぐに泥棒に入られてしまいました。鍵は2重にしてあったのですが、意味がありませんでした。友人がジョージア工科大学(あまり治安が良くないところにあります)に行っていたので、遊びにいったところ、途中の道で5人くらいの若者に取り囲まれそうになって、危機一髪だったこともありました。

このように書くと、やはりアメリカは危ないところだと思う方も多いかと思いますが、基本的にはよほどのことがなければ、大丈夫です。ただ、どこの町でも治安が悪い場所があるのも事実です。そういうところには行かなければよいのです。

ニューヨークに限れば、最近は以前よりずっと安全になりました。本当に良かったです。ただ、いつ何が起きても平気なように外へ出るときは、いつも気を張っていたほうが良いかもしれません。

それは、アメリカに限らず、外国に行ったときは同じだと思います。まして、留学では滞在時間が長いので、何が起きても大丈夫なような胆の太さを持っていたほうが、良いと思います。

学内は基本的には安全なので、勉強やその他のことで忙しい毎日ですからあっという間に時間が経ってしまい留学も終わってしまうでしょう。私の場合は、その時代的なものと、留学期間が長かった(8年間)ことに起因するとおもいます。


アメリカは本当に危険なところか?(2)

アメリカという国が、一見危険に感じるのは何事も自己責任で行動しなければならないことにも、一因していると思います。ニューヨークでは、歩行者はほとんど信号を守りませんし、守っても安全とは限らないのです。なぜなら、運転者も信号を守るかどうかわからないからです。みんな自己判断で交通しているのです。

アトランタにいるとき、かなり危険な経験をしました。だれかに襲われたわけではないのですが、アメリカならではの出来事でした。

それは、ロック歌手のヴァン・ヘレンのコンサートに行ったときのことです。アメリカ人を含んだ4カ国ほどの友人と、車で会場まで行きました。「ジャンプ」と言う曲がはやっていたので、会場は日本の武道館のようなところでしたが、満員でした。

演奏が始まると、みんなどんどん盛り上がってきました。演奏も考えていたよりも音がきれいで、声もがなり立てることもなく、意外なほど良かったです。そして、彼らが「ジャンプ」を歌いだすと、雰囲気は最高潮に達しました。

その時、私は周りがやけに煙いことに気がつきました。タバコを吸っているのかと思ったら何か匂いが違います。なんとマリウァナを吸っていたのです。それも一人や二人ではなかったのです。

私たちのところにも、マリウァナが回ってきました。すると、私以外の4人も吸い出してしまいました。私はタバコも吸わないので、吸いませんでしたが、その煙と匂いが会場に充満していました。警官が何人もいたので、これで良いのかと聞くと、喧嘩や暴動が起こらなければ良いとのことでした。そのためにここで監視しているので心配ないというのです。ビックリしてしまいました。

帰りの車の中では、みんなハイになっていて、私は心配でした。運転している友人に少し冷ましてから帰ろうと言ったのですが、聞き入れてもらえませんでした。そして。ちょうど峠のカーブに差し掛かったとき、曲がりきれず、車をガードレールに思い切りこすらせてしまったのです。落ちたら、完全に死ぬような崖のところだったので、さすがのみんなも真っ青になってしまいました。私達は、近くのカフェで休みを取ることにしました。

幸いその後は、何もなかったのですが、本当に危ない体験でした。

ニューヨークでも、ビリ-・ジョエルやライオネル・リッチ、プリンス、ボンジョビなどのコンサートに行きましたが、アトランタでのようなことは、ありませんでした。州によって法律や慣習、習慣が違うので、何と言えませんが、やはり自己責任で対処していかなければ、いけないでしょう。


アメリカは本当に危険なところか?(3)

ニューヨークでも、違った意味でかなり危険なことがありました。

ある日、インターナショナルハウスの掲示板に「病人です。ヘルプを求めます。」という紙が貼ってあったので、電話してみると、ぜひ来て欲しいと言われました。行ってみると場所はニューヨークのとても良い場所にあるコンドミニアムでした。さすが、コロンビアのOBは違うなと思いながら私は部屋のベルを押しました。

すると、出てきたのはまだそんなに年でない(いやまだ若い)白人の男性でした。どうみても病人とは思えませんでした。聞いてみると離婚したので、部屋を掃除する人がいないとのことでした。

それならばそのように掲示すればよいと思いましたが、私は思い直して掃除を始めました。何日も掃除していなかったらしく、かなり大変な仕事でした。特にバスとトイレの汚さは半端でなかったです。

3時間以上かけて、やっと終わったことを彼に告げると、まだバイト代を渡すことはできないというのです。まだどこか掃除する場所があるのと聞くと、もう掃除する必要はない。それは良くやってくれたと言います。しかし、私にベッドルームに行けというのです。

私は、非常にまずい状況に追い込まれたと思いました。相手を怒らせると大変なことになりそうので、冷静に対処することにしました。先ず、私にはそういう趣味はないことを主張し、どうしてもできないことを告げました。そして、何とか返してもらったのですが、バイト代は、半分しかもらえませんでした。でも、なんでもなくて良かっと思いました。

そのあと、また同じ掲示板に、性懲りもなく彼の「ヘルプ!」の紙が貼ってあったので、インターナショナルハウスの事務局に行って、事情を話しました。
そして、事務局から彼に、しっかりお灸をすえてもらいましたので、その後はその掲示はなくなりました。

どちらにしても、かなり危ない経験をしたものです。冷静に対処したのが良かったと思っています。


博士課程での勉強のこと

修士(EdM)をとって、後15単位のところまできた私は、単位上からは博士課程の学生になりました。私としては、すぐに単位を取ってしまい博士論文に取り掛かりたかったのですが、担当教授の先生はそんなに急ぐことはないと言うのです。

考えてみたら、まだコロンビア大学に来て一年しか経っていなかったのですから当然でした。そこで私は、今までの方針を変えてゆっくりじっくり単位を取ってゆくことにしたのです。

また、博士論文を書くためには、その前に大きな試験( Comprehensive Examination)があるのです。これをパスするためには、かなりの時間がかかることは明白でした。

この試験のための準備も必要なので、履修する科目を極力少なくしたのです。

このComprehensive Examinationは、一日かけて行うもので、論文式の筆記試験です。大体8問くらい出ます。今まで勉強した全範囲から出るので、どこが出るか全くわからないものです。2回までしか受けられないので、万全な対策が必要でした。

そんな訳で、今までのようにたくさん授業を取るのを止めたのです。これは、私にとってとても良かったと思います。それは、時間的余裕と精神的な余裕が生まれたからです。

いままでのことを振り返ることもできました。
また、日本からきた後輩達にたいして、アドバイスもできるようになったのです。

こんな感じで1年が過ぎていきました。そしていよいよこのテスト(Comprehensive Examination)を受けることになったのです。

このテストの受験のことは、色々エピソードがあるので次回に書きたいと思います。


Comprehensive Examination のこと

Comprehensive Examinationとは、博士論文を書くことができる資格を得るためのテストのことです。午前と午後で合計6時間くらいかかる試験です。したがって、知力もですが、とても体力が必要なものです。一度落ちても、もう一回は受けられますが、二度落ちるとそこで終わりになります。

他の大学に行くか、博士号を取るのを諦めなければならないのです。従って、テストに寛容なアメリカ人の学生でもこのテストに関しては、本当に真剣に受けるのが通例です。

何しろどこから出るのか全くわかりませんので、本当に実力勝負です。過去の問題など公開されないので対策も立てられないのです。

私は、ほとんど対策らしいことしないで申し込み、受験することになりました。そして受験会場に行きました。やはり、普段とは全く違う雰囲気で、みんな緊張しているようでした。アメリカでは、TOEFLやGREなどのテストのときでも、あまり緊張感はなかったので少し驚きました。

日本の大学受験のときのように、名前と番号が机に貼ってありました。私はなんとなく懐かしく感じました。しかし、私の名前と番号がついている机が、どこにもないのです。テストを監督している人に聞いても、わからないと言うのです。

しかたなく、私は指導教官のところへ行って事情をはなしました。すると、忘れたかなあと言って、いたってのんきなのです。私がどうすれば良いのかと聞くと、明日彼の研究室で受ければ良いというのです。私は、本当に驚いてしまいました。

次の日、私は一人で指導教官の研究室で、試験を受けました。何かとてもやりにくかったことを覚えています。問題は論文の問題で、全部で8問くらいあったと思います。教育学と心理学の問題が半々でした。しかし、その中で1つだけよくわからない問題があったのです。その問題は、後回しにして他の問題を解いていきました。論文形式の問題でしたが。留学生は辞書を持ち込めるので、何とかなりました。

しかし、その一問だけは、どうにもわからないのです。でも、その時ひらめきました。その日私は、念のために英和大辞典も持ってきていたのです。そして、その問題のキーワードを引いてみました。するとかなり詳しく載っていたのです。私はそれを参考に論文を書き上げることができたのです。もし昨日だったら英和中辞典しか持って行かなかったので書き上げることは出来なかったと思います。

このテストは、結果的には受かったので、良かったのですが、もし、試験当日受けていたら、どうなっていたかわかりませんでした。一問でも白紙があるとかなり印象は悪くなります。名前がなかったことが、かえって幸いしたと思いました。人生何が幸いするかわからないものです。

Comprehensive Examinationに合格したことで、かなり博士号には近くなったと思った私は、幸せな気分になったのですが、それは私の認識不足でした。まだまだ、山はあったのです。そのことは、次回書きたいと思います。


博士論文の概要(outline)のこと

Comprehensive Examinationを終えた私は、山で言えば9合目くらいに来た気持ちでした。

しかし、それは間違っていました。それから、学位を得るためにまだ2年以上かかったのです。それは、担当教授に博士論文の概要(outline)を提出して論文を書く許可を得なければならないからです。その許可が、すぐには出なかったのです。

私の専門は、もともと発達心理学だったので、ピアジェタイプの研究で、論文を書こうと考えていました。しかし、博士論文の概要(outline)を担当の先生に提出してもなかなか良いと言ってくれないのです。

博士論文の概要といってもA4で10ページくらい書かなければいけません。書くのもなかなか大変でした。それを簡単にNo,と言われたら、私もどうしてよいかわかりませんでした。

そこで、図書館に行って今までの博士論文を調べてみました。図書館には5000を越える歴代の卒業生の論文が、保管されていました。そのなかには、カール・ロジャースのようなその後著名な心理学者になった人たちの論文も大切に保管されていたのです。

私は、それらを読んでみて、若き日のロジャース先生たちの画像が浮かび上がってきました。そこでわかったことは後に著名なった人たちでさえも、論文を書くのは大変だったのだということでした。

私は、自分の甘さを認識し、もう一度冷静に考え直すことにしました。手を変え品を変えて博士論文に概要(outline)を出してみたのですが、結果的にそれでも担当教授はYes,と言いませんでした。合計5種類の概要を書いてもダメだったのです。

さすがの私もこれには参りまして、しばらく時間を取ろうと考えなおしました。そして、この辺で気分を変えてみようと思ったのです。

それは、別の大学で勉強してみようと考えたのです。
これが、私がハーバード大学を受験してみようしたきっかけでした。次回は、ハーバード大学の受験ことについて、お話してみたいと思います。


ハーバード大学大学院の受験のこと

ハーバード大学大学院は、受験するのもアメリカの他大学と少し違っていました。受験機会も年に1度しかなく、そういう意味では日本の大学のようでした。願書(アプリケーション)もまるで一冊の本のようで書くだけでも大変でした。

願書を出し終えると、しばらくして、私のニューヨークのアパートにハーバードのアドミッションのディレクターから電話がかかって来ました。何の前触れもなかったので、驚きました。

用事は何かと思っていたら、単に今何の勉強をしているのかなどという世間話のようなことであったのが印象的でした。週末何をしたかなどを聞かれたので、声楽も勉強しているからメトロポリタンオペラを観にいったと答えました。すると急に相手の態度がフレンドリィになり話が弾みました。これなどは、後から考えてみると、普段の私の態度、趣味、あるいは英語の対応などをさりげなくチェックしていたのではないかと思います。

そのあと、しばらくして、私のところにハーバード大学から、一枚のパーティー招待状がきたのです。それは、ニューヨークのハーバード大学のOBの家で受験生のためにパーティーを催すというものでした。

行ってみると、マンハッタンの大きなコンドミニアムをワンフロアー借り切っているような家でした。パーソナルな雰囲気の中でお互いのことを知り合うという試みのようでしたが、その趣旨は形を変えた面接であったと思います。随分手の込んだことをするものだと思いました。

ハーバード大学では、正式な面接も厳密でした。一般に、5人ほどの面接官によって多方面から審査されます。通常、この5人のうちの3人が入学をアクセプトすれば合格ですが、これにもいくつかの段階に分かれていて、受験生によって対応がまちまちでした。

受験する学生は自分にいかに才能があるかを自らアピールし、大学側に自分を入学させることによって将来どのような得をするかなどのようなことも主張したりしなければなりません。私も、できるだけ自己アピールをしました。

とても面倒な受験経験でしたが、非常に勉強になりました。ハーバード大学の本当に良い学生を取ろうとする熱意が、ひしひしと伝わってきました。

こうして、私は無事にハーバード大学で勉強することになりました。

声楽の授業のこと(1~11) ~コロンビア大学にて~

声楽の授業のこと(1)

私がコロンビア大学で声楽の個人レッスンの授業をとったのは、すべて教育学や心理学の授業では疲れてしまうので、ある意味息抜きに履修したのです。
また、自分の専門外の単位を6単位以上必ずとらなければならないという事情もありました。よく知らない科目を取って、悪い成績を取ったら大変です。声楽だったら大丈夫であろうと考えたのです。

夏学期はサマーAとサマーBに分かれていて、集中講義のような形式になっていました。どちらか一方をとってもいいし、両方とっても良いのです。これは、現職の教師の方々が単位を取りやすいように配慮されていました。

サマーAでの声楽の先生は、女性で大学院博士課程の学生でした。とても、元気ではつらつとしているソプラノの先生でした。
授業は、個人レッスンで色々な曲をどんどん歌わせる形式でした。あまり発声練習などはせずに、いろいろな種類の曲を課題に出してきました。

通常、声楽のレッスンでは、ドイツリートかイタリア歌曲を中心に練習するのですが、彼女のレッスンは、そのようなこだわりはなく自由に色々な曲を歌わせるのです。
その中でも印象に残っているのは、ウエストサイド物語の「マリア」です。有名なミュージカルですが、その中でも有名な曲の一つです。

ミュージカルの曲は、クラシックの声楽曲より簡単だと思っていましたが、実際歌ってみるとなかなか難しいのです。発声も合唱のときのように歌ってもだめだし、オペラのように歌ってもミュージカルの感じが出ません。先生に聞いてもどう歌っていいかはっきりしませんでした。そこで、掲示板の「歌を教えます」と書いてあるものに、片っ端から電話してみました。

すると、ジュリアード音楽院を出て、実際にブロードウェイで歌っている人がいたのです。早速会ってみることにしました。
その先生は女性で、とても感じのいい人でした。コロンビア大学の近くに住んでいたので通うのは楽でしたし、レッスン料も比較的安かったので教えてもらうことにしました。

彼女からミュージカルでの歌い方を教えてもらったのですが、とても良かったです。それは、以下の三つの点がありました。

① ミュージカルでは、オペラのように声を張らないこと。それでいて、遠くまできこえるようにひびかせること。
② リンキングブレス(息をつなげるようにブレスをする)を身につけること。
③ 胸の中心のところを意識しながら、呼吸をコントロールすること。

どれもとても難しくすぐにはできませんでしたが、とても勉強になりました。やはり実際に歌っている人は違うなと思ったものです。彼女からは、ミュージカルのチケットを安く譲ってもらったり、頂いたりもしたので多くのミュージカルを観ることができました。

そんなわけで「マリア」を上手く歌えるようになり、コロンビア大学の先生からも随分上手くなったと褒められるようになりました。
今でも「マリア」は好きな曲の一つです。


声楽の授業のこと(2)

秋学期なって、私は、やはり声楽の授業をとることにしました。単位のこともありましたが、純粋に歌を習うことを続けたかったのです。

今度の先生は男性で、アナグヌス先生というベテランの教授でした。イタリア系アメリカ人で、ジュリアード音楽院でマスターをとり、その後コロンビア大学で博士号を取得した方でした。
時間に遅れるなど、ちょっといいかげんな所もありましたが、実力はありそうでした。
彼の教え方は、夏学期の先生とは全く違っていました。

私が、発声で声を出すと、持ち声はいいが発声の仕方がだめだと言うのです。特に腹筋の使い方とブレスが悪いと言われてしまったのです。そして、もう一度ははじめからやり直しだというのです。発声には自信があった私はショックを受けました。

逆らうこともできないので、言われたとおり呼吸からやり直しました。そこでわかったのは、私の呼吸はまだまだ浅かったのです。

また、唇と舌が硬いことを指摘され、巻き舌でルルルルと歌う練習と唇をブルブルとふるわせる練習をさせられました。

このような練習がずっと続き、最初の学期では何も歌を歌わせてもらえませんでした。こんなので良いのかと思いましたが、まずは、素直に聞くことにしました。

春学期が始まって、驚きました。履修していない声楽と合唱が登録されているのです。先生が私の知らないところで、勝手に登録してしまったのです。

これが、アナグヌス先生との4年にわたる付き合いの始まりだったのです。
私に歌を教えたかったのだと思いましたが、聞いたことのない強引なやり方に驚くと同時に、あきれてしまいました。

でも、愛嬌があり面白いところもあるので、彼について行くことにしました。それよりも彼の発声理論の真偽を知りたかったことも、大きな理由でした。


声楽の授業(3)

春学期に入って、また声楽の個人レッスンが始まりました。しかし、まだ依然として発声練習ばかりでした。ある意味で発声だけだと覚えることがないので、楽でした。
ただ、アナグヌス先生のレッスンは毎セメスター(学期)ごとに目標がありました。この時は、話し声と歌声を一致させることでした。つまり、いつも複式呼吸で過ごすということです。

そんなことができるのかと、思いましたが、先生が強く言うのでそのようにするように努力しました。すると、姿勢が良くなったように感じました。そのようにつとめていると、
だんだんできるようになるのですが、大きい声よりも小さい声を出すのが難しいことに気づきました。また、英語の発音が良くなったと、英語の先生から褒められました。

もう一つは、声を頭の後ろから出してはだめだと言うのです。もちろん地声ではだめなのですが、まだそのほうがましだと言われました。また、頭声発声も良くないと言われてしまいました。私はどのように声を出したら良いかわからなくなってしまったのです。

先生は真ん中の声と言っていましたが、意味が良くわかりません。ハーモニカを吹くように歌えばいいと言うのですが、イメージがつかめませんでした。そこで、テープレコーダーを持って行き、先生の声と私の声を録音して比べてみました。すると、やはり違うことに気づいたのです。私は何とかまねをしたのですが、そう簡単にはできませんでした。

しかし、しばらくそのような練習をしていると、イタリア歌曲の「ニーナ」を歌っても良いと言われました。この曲は私もよく知っていたので、簡単かと思っていたら、きちんと歌おうとすると、難しいことがわかりました。この曲はその後1年以上歌うことになるのです。

春学期が終わる頃になっても、テストをする様子もないので、その意味では楽でしたが、しかしなかなか上手く声が出せないのでイライラしました。ここは、我慢のしどころだと思い、先生の言うとおりに、レッスンしていきました。結局、テストはなかったのですが、その学期の最後のレッスンで、夏学期も声楽の授業を取るようにと先生から言われてしましました。私は少し休みたかったのですが、続けたほうが良いと言うのです。

それで、私は夏休みもなく声楽の個人レッスンを受けることになったのです。


声楽の授業(4)

夏学期のサマーA、サマーBの期間中、私はずっと声楽のレッスンを受けていました。いくら単位になるとは言っても、歌ばかり歌っていて良いものかと思いましたが、もう乗りかかった舟でしたので、先生の言うことを聞くことにしました。

レッスンは、相変わらす発声中心でした。でも続けていくうちに少しできるようになってきました。先生の言う真ん中の声の出し方が少しわかってきたのです。先生からもほめられるようになってきたのです。この一年あまり全くほめられることはなかったので、少し嬉しくなりました。

しかし、できるようになったとは言っても、発声のときだけで曲になると途端にできなくなってしまうのです。まだ、自由に歌うのにはほど遠いと思いました。でも、部分的には上手く行くこともあり、その時はばかに楽に歌えるなと思いました。上手くいくと、先生は、今度はビロードのような声にしようなどと、さらに難しいことを言い出すのには、少し閉口しました。

私が、オペラ歌手では誰を参考にすればよいかを先生に聞くと、プラシード・ドミンゴが良いといわれました。メトロポリタンオペラのチケットは高くて行けないと私が言うとチケットを譲ってくれると言うのです。

Nessun Dorma 誰も寝てはならぬ - Placido Domingo

先生はややいい加減なところもあるので、話半分に聞いていたのですが、秋になってメトロポリタンオペラのシーズンが始まると、本当にチケットをくださったので、驚きました。

早速行ってきましたが、そのときのドミンゴはとても調子がよく、素晴らしいものでした。私は、素晴らしいプレゼントをくださった先生に、本当に感謝しました。

チケットは先生が買ってくださったのだと思っていましたが、後で聞いてみたところ、音楽学科にはメトロポリタンオペラから時々チケットのドーネーション(寄付)があるので、それを私にまわしてくれたそうです。私は、声楽のレッスンを取っていて良いこともあるものだと思いました。


声楽の授業(5)

秋学期がはじまって、私の履修表をみると、やはり、自動的に声楽のクラスが入っていました。さらに驚いたのはチェンバーミュージック(chamber music)という科目が登録されていたのです。

chamber とは古い言葉で,主として「宮殿の広間」などをさすそうです。従ってチェンバーミュージックとは宮殿の広間で行われる音楽という意味です。日本にも大正時代に立てられた ルネスホールというホールがあります。いわゆる「洋館」で,外観はギリシャの神殿風。中は2階がバルコニーで囲まれたいわゆる広間です。ちょうどこの「chamber」にあたるものだと思っていいと思います。

先生はこの授業で、ヘンデルのメサイヤのテナーのソロの部分を練習するようにと言いました。この曲は、そんなに簡単に歌えるものではなく、かなりの練習が必要なものでした。そして、学期の最後に室内楽を一緒に大学のホールで歌うようにと言われてしまいました。

今まで発声ばかりだったので、のんきにかまえていた私は、少し戸惑ってしまいました。しかしやらざるを得ないので、かなり練習しました。幸い、コロンビア大学で2年目に入っていたので、少し余裕ができていました。だから他の科目には影響はなかったのですが、人前でしかも室内楽とあわせるとなると、かなり大変なことでした。

学期末が来て、いよいよホールで歌うことになりました。人前で歌うことには慣れていましたが、室内楽とあわせるのは初めてなので、かなり緊張しました。オーケストラの音にあわせて歌うのは、なかなか難しいのです。でも、なんとか2曲歌い終えることができました。

その後、先生の出す課題は、どんどん難しくなっていきました。曲数は少ないのですが曲のクオリテイの高い曲ばかりなのです。

春学期の履修表を見ると今度は、鍵盤楽器(ピアノ)のクラスも登録されているのです。

私は、アメリカに音楽留学に来たのかと、錯覚してしまうほどでした。


声楽の授業(6)

春学期が始まって、私は先生に、なぜ鍵盤楽器のクラスを取らなければならないのかと聞いたところ、そのうち役に立つことがあるからと答えるのみでした。

声楽のほうは、発声だけでなく、歌を歌う機会が多くなってきました。イタリア歌曲とバーンスタインの「マス」の中のテナーのソロです。「マス」の中のテナーのソロはとても難しく、なかなか歌うことができませんでした。結局、この曲を完成させるのに1年以上かかりました。現代曲のせいか音をとるだけでも難しかったです。

ピアノのほうは、女性の先生で基礎から教えてもらいました。ジョセフ・レビーンの
「ピアノ奏法の基礎」をよく読むように言われました。このテキストをもとに一つ一つ丁寧に教えていただきました。そして、丸くきれいな音でまずひとつのフレーズが弾けるように、何回も何回も繰り返し弾くのです。

ただ、力を抜いてピアノを弾くというわけではなく、しっかり鍵盤を底まで弾いてやわらかく弾かなければならないのです。これは、水と油を調和させるようなものでとても難しい技術でした。指に力は入れてはダメで、手のひら全体で弾くように言われました。

このレッスンがきっかけのなり、ピアノのコンサートにも行くようになりました。
アルゲリッチ、ラベック姉妹、そしてホロビッツなどのピアノコンサートを聴きました。
その中でもホロビッツのコンサートが特に印象に残っています。その日のホロビッツはとても調子が良く、素晴らしいものでした。とくに「英雄ポロネーズ」と「カルメン幻想曲」は本当に素晴らしく、今でも音が耳にしっかり残っています。

アナグヌス先生と知り合ったお陰で、私の音楽の幅が広がったようでした。さらに先生の課題は、独唱ではオペラのアリアに進んでいきました。また、彼が作った合唱団で歌うように言われました。その合唱団は、私が今まで所属した合唱団のなかで最もレベルが高いものでした。そのことに関しては次回に書きたいと思います。


声楽の授業(7)

夏学期に入っても、前半(サマーA)で声楽の授業を取りました。この頃になるとかなり以前に比べて歌いやすくなっていました。先生の言う真ん中の声の感覚がつかめてきたのですお。確かにハーモニカを吹く感覚に似ていました。

しかし、先生は発声に関してもう一つの課題を出してきました。それは、声を前に投げ出すように発声することです。これはオペラを歌う場合に必要な技術です。でも、かなり難しく、上手くいきません。投げ出そうとすると、捕まえた声になってしますのです。捕まえた声とは、音の広がりがない硬い感じの声です。

この練習は、秋学期に入っても続きました。そして、先生は課題としてモーツァルトの「魔笛」の中から、テナーのアリア「何てすてきな絵姿だろう」を出してきたのです。この曲は、高音もGまでしかなく、一見簡単そうなのですが、歌ってみると難しかったです。息が続かないのです。私は、やはりオペラは一味違うと思いました。

また、彼の合唱団の練習も始まりました。団員は、コロンビアやジュリアード音楽院を卒業して、大学などで声楽を教えている人たちばかりだったので、みんなとても上手でした。合唱のこともよくわかっているらしく、声を合わせる技術も素人とは違いました。
私の声が両脇のテナーの人の声に吸い込まれていく経験をしました。こんなことは、今まで経験したことがなかったので、本当に驚きました。また、テナーの声とアルトの声が良く交じり合って、一つになっていたのも、なかなかない経験でした。

曲はプーランクの合唱曲などを練習しましたが、どれも非常に難しい曲ばかりでした。でも、とても歌いやすいのです。こんな経験も初めてでした。演奏会はニューヨークの大きな教会で行いました。昼の部(マチネ)あったので、一日で2回演奏しました。

驚いたのはチケットが当時のレートですが、円で2万円以上するのです。私は、チケットノルマがきたらどうしようと心配していましたが、全くこないのです。昼夜2回の演奏会なので、人を集めるのが大変だと心配していました。

当日、観客席を見ると何と満員のお客さんが入っているのです。これには本当にびっくりしました。後で聞いてみると、チケットは昼夜共に完売だったそうです。日本の合唱団でのチケットを売るのに毎年苦労をしていたのとは、大違いでした。演奏もとても上手くいきました。非常に心に残る演奏会でした。
ただ、あのチケットの売り上げはどこに行ってしまったのか良くわからないところはありました。


声楽の授業(8)

また、新しい学期が始まりました。
音楽関係の授業は、声楽のレッスンのほか「音楽とコンピュータ」と「音楽教育史」をとりました。もう音楽関係の単位だけでも30単位以上になっていたので、もう一つのマスター(MA)が取れるかどうか、学位を発行する事務所に聞いてみました。

すると、指導教官のサインがあれば、問題ないということなので、早速、先生のところに行くと快くサインをしていただきました。音楽関係の単位ばかりだったので何か言われるかと思いましたが、何も言われませんでした。もしこれが日本の大学だったら、何か言われるところです。きっと怒られると思います。
反対に、アメリカの先生方は、私が音楽をすることに対して本当にポジティブでした。

こんなわけで、もう一つの修士(マスター)が取れたのですが、アメリカの大学の自由さ(フレクシィビリティ)を改めて感じるできごとでした。

声楽のレッスンは、魔笛のテナーのアリアの練習に終始しました。ドイツの名テナー ヴンダーリッヒのCDを参考にして練習しました。モーツァルトは一見簡単そうなのですが、歌ってみるとなかなか難しいのです。特にきれいに歌うのは本当に難しいと思いました。

でも、オペラのアリアを勉強できる機会は、あまりないのでその意味では、本当にめぐまれていました。日本では音楽大学に行くか、教育学部の音楽科に行かなければ、なかなかできないことだからです。

魔笛がほぼ完成したとき、先生は次の課題を出してきました。それはプッチーニの「トゥーランドット」にある代表的なテナーのアリア「ネッスンドルマ(誰も寝てはならぬ)」だったのです。これはとても難しい曲ですので、私にはまだ無理だといったのですが、先生は挑戦すべきだというのです。
というのは、私の声は、ドラマティコといってドラマティックな声を出す分類に入るので、この曲にあっているとのことでした。

Nessun Dorma 誰も寝てはならぬ - Placido Domingo


声楽の授業(9)

「ネッスンドルマ(誰も寝てはならぬ)」の練習が始まりました。
この曲は、音を取ること自体はそんなに難しくありません。しかし、
歌いきるのはとても大変です。

一般に、オペラの曲は音程をとること自体については、それほど困難なことはありません。それに比べたら日本の現代の合唱曲などは、音を取るだけでも大変な曲が多いです。オペラの難しさは、歌いきるだけのパワーが必要なことです。それと当然のことですが、一人で歌わなければいけません。また、オペラを歌えるだけの発声ができていることが必要条件となります。

ネッスンドルマについては、最後のHの音が出なくて大変でした。H(シの音)は出すだけなら出るのですが、抜いた声や、かすれた声ではダメで、しっかりした声が必要です。Hをきれいに出すには、ハイC(普通のドレミ・・・ドのオクターブ上のド)が出ることが必要ですが、これが本当に大変でした。

シとドのほんの半音の違いですが世界が違うのです。ハイCは初めのうちはほとんど出ませんでした。発声練習でも出ないのでもうお手上げです。そうしているうちにHはおろかAも出なくなってきました。高い音の練習は、難しいし間違えるとのどを痛めるので気をつけたほうが良いですね。

ネッスンドルマは曲の最初に低い音もあるので、この部分をきれいに歌うのも大変でした。先生はそれこそビロードのような声で歌えと言うのです。
そんなことなかなかできませんよね。

このセメスター(学期)はこんなふうにあっという間に過ぎて行きました。


声楽の授業(10)

「ネッスンドルマ(誰も寝てはならぬ)」の練習は、年が明けても続きました。しかし、どうも上手くいきません。曲全体のイメージもつかめません。そこで。先生に相談したところ、一度ドミンゴの演奏を聴いてみたらよいと言われたので、聴きに行くことにしました。

この時は、きちんとチケットを買っていきました。プレミア公演だったのでかなり高かったと思います。演奏が始まりましたが、この日のドミンゴは、調子が良くありませんでした、高音が詰まってしまうのです。心配して聴いていました。

いよいよ「ネッスンドルマ」のシーンが来ました。彼が歌いだすと聴衆は異様に静かになりました。とても調子良さそうです。そして、最後の高音の部分になりました。「ビンチェロー!」とドミンゴが歌うと、残念、声が詰まって音を充分に伸ばせませんでした。

周りの、聴衆は「あーあ!」というガッカリした感じでしたが、私はそうは思いませんでした。なぜなら、曲の難しさを嫌と言うほど実感していたからです。
反面、少しホッとしました。ドミンゴでも歌うのが難しい曲を私がすぐ歌えるわけがないと思ったからです。だから。時間をかけてゆっくり練習していこうと考え直しました。

その後私は、日本に一時帰国したり、博士論文を作成しなければならなくなり、声楽のレッスンはあまりできなくなりましたが、自分で練習はしていました。そして、2学期ほどあけてから、レッスンを再開しました。


声楽の授業(11)

ニューヨークに戻ってきて、またレッスンが再開されました。これが結果的には最後の年になるのですが、レッスンはそんなことは関係なく続いていきました。

課題としては、
1.声を投げ出せるようにすること。
2.太い声のままHの音がだせること。
3.イタリア語の発音を改善すること。

以上の三つがありました。
どれも難しい問題でした。
1に関しては、なかなかコツがつかめませんでした。
2については、Hの音は出せるようになったのですが、まだ細いですし、発声ではできても曲のなかでは、できなくなってしまうのです。
3については、先生がイタリア系だったので、とても丁寧に教えていただきました。そのせいかかなり改善されました。

難しい課題なので、なかなかできませんでしたが、根気よく練習を続けていたところ、本当に徐々にですが、できるようになってきていました。

結局、コロンビア大学にいるうちには、充分には解決できませんでした。「ネッスンドルマ」もまだまだ人前で歌えるほどのレベルでは、ありませんでした。

しかし、日本に帰ってきてからも、私は自分で声楽の研究を続けました。現在でも続けています。幸い藤原歌劇団のプロの方と知り合うことができて、その先生からレッスンを受けています。その先生の考え方は、コロンビア大学でアナグヌス先生から習った方向性と非常に似ていたので、本当にラッキーでした。

アメリカで多くの先生方から、教えていただいた音楽の技術や知識は、私の教養の幅を確実に広げました。音楽の勉強をして本当に良かったと思います。アメリカの先生方は、私がアマチュアで、趣味で声楽をやっていることとは関係なく、本当に一生懸命教えてくださったのです。本当に感謝しております。これからも、声楽の勉強は続けていきたいと思っております。


帰国後の声楽の活動(その他の音楽活動も一部含む)

日本に帰国してからも声楽の勉強を続けていました。「ネッスンドルマ」も人前で歌えるようになりました。そして、日本でもできるだけ発表する機会を持つようにしました。
以下がその記録です。すべて独唱など私一人の演奏です。合唱は含まれておりません。

第9回全国童謡歌唱コンクール北海道ブロック決勝大会出場(大人部門入賞)
第10回全国童謡歌唱コンクール北海道ブロック決勝大会出場
第11回全国童謡歌唱コンクール北海道ブロック決勝大会出場(大人部門審査員奨励賞受賞)
第12回全国童謡歌唱コンクール北海道ブロック決勝大会出場(大人部門 最優秀賞受賞)
第12回全国童謡歌唱コンクール全国大会出場
札幌アマチュアクラシック音楽祭出演
札幌アマチュアクラシック音楽祭出演
第14回全国童謡歌唱コンクール北海道ブロック決勝大会出場(大人部門優秀賞受賞)
アマチュアクラシック音楽祭第1回独唱コンクール出演(金賞受賞)新宿オペラシティリサイタルホールにて
第15回全国童謡コンクール北海道プロック決勝大会出場(大人部門優秀賞受賞)
神戸震災復興記念ガラコンサート出演
札幌アマチュアクラシック音楽祭出演
神戸ミュージックフェア2000出演
第2回アマチュア声楽コンクール出場(奨励賞受賞)東京オペラシティリサイタルホールにて
第4回管楽器コンクールガラコンサート出演
第6回アジアクラシックコンサート出演サントリー小ホールにて
TIALA全日本クラシック音楽コンサート出演 かつしかシンフォニーヒルズにて
フォルテックスプリングジュエリーコンチェルトコンサート出演ティアラ こうとう大ホールにて
第16回全国童謡コンクール北海道プロック決勝大会出場(大人部門優秀賞受賞)
札幌アマチュアクラシック音楽祭出演
第3回アマチュア声楽コンクール出場
フォルテックオータムジュエリーコンチェルトコンサート出演大阪国際交流会館大ホールにて
第17回全国童謡コンクール北海道プロック決勝大会出場(大人部門優秀賞受賞)
第18回全国童謡コンクール北海道プロック決勝大会出場(大人部門優秀賞受賞)
第19回全国童謡コンクール北海道プロック決勝大会出場
札幌アマチュアクラシック音楽祭出演
ヤマハコンサート出演
ヤマハコンサート出演
札幌童謡の会コンサート出演
中田喜直記念コンクール(本選)出場
ヤマハコンサート出演
第20回全国童謡コンクール北海道プロック決勝大会出場(大人部門優秀賞受賞)
ヤマハコンサート出演
第21回全国童謡歌唱コンクール北海道ブロック決勝大会出場(大人部門 最優秀賞受賞)
第21回全国童謡歌唱コンクール全国大会出場
第1回ファミリーコンサート開催
第2回ファミリーコンサート開催
第23回全国童謡コンクール北海道プロック決勝大会出場(大人部門優秀賞受賞)
第3回ファミリーコンサート開催
第24回全国童謡コンクール北海道プロック決勝大会出場
国際口笛フェスティバルアジア地区大会(本選)出場
エリーゼ音楽祭ピアノコンクール東京大会出場(優秀賞受賞)ティアラ江東小ホール
エリーゼ音楽祭ピアノコンクール全国大会出場(銅賞受賞)銀座ヤマハホール

 ハーバード大学のこと

ハーバード大学は合衆国内で最も古い大学(1636年成立)であり、学術において世界最先端に位置していることで知られています。日本でも最も有名なアメリカの大学ですよね。

日本の大学においては、大学院よりも学部の方が学生数の多いのが一般的ですが、ハーバード大学では、大学院のほうが発達しています。この点ではコロンビア大学も同じです。

学部課程は、いわゆるリベラルアーツのカレッジです。4年間、教養を深めるために勉強します。多くの学生が大学院に進学します。大学院は、学術大学院のほかにメディカルスクール、ビジネススクール、ロースクール、ケネディスクールなどの専門職の大学院があります。

私の入学した教育大学院は、専門職大学院の一つで、上記の大学院にくらべて地味な存在です。しかし、大学院(教育分野)のランキングでは、毎年コロンビア大学と1位、2位を争っていました。現在でもそれは同じ状況です。

ハーバード大学に入学してみると、その授業のシステムがコロンビア大学とはかなり異なっていました。それは、多くの授業が大教室で行われることです。大教室の授業は、アメリカの大学では経験がなかったので、とても意外でした。

しかし、学生への個人的なケアをしないと言うわけではなく、授業が終わった後、5、6人の小グループに分けて改めてゼミ形式の授業をするのです。教えるのは、大学院博士課程の大学院生でした。

このシステムに少し違和感を覚えましたが、順調に受講していました。そんな時日本の母から、父が脳梗塞で倒れたのでいったん帰ってきて欲しいと、手紙が届いたのです。仕方がないので、ハーバードでの勉強は、一度中断することにしました。

残念でしたが、仕方がありませんでした。しかし、日本に帰るのであれば、その前に博士論文の概要(outline)の問題をコロンビア大学へ行って解決しなければなりませんでした。

 博士論文の概要(outline)のことと一時帰国

コロンビア大学で、指導教官に事情を話し一時帰国することを了承してもらいましたが、その前に博士論文の概要(outline)を提出したいことを伝えました。

すると、先生は今まで私が出したアウトラインの内容は、アメリカ人の学生でもできるものばかりなので、私でなければできないものにした方が良いと言うのです。

先生の言うことを、反すうしているうちに、あることに気がつきました。最近の彼の研究は、教育心理学的なものから離れ、比較教育学的な内容に変わっていたのです。特に日本の教育の歴史的な研究に彼は関心を持っていました。

そこで、私は日本の算数・数学教育の歴史について、教育心理学視点からの論文をA410枚ほどにまとめて提出してみました。すると、彼から呼び出しがあり、研究室に行ってみました。すると、大変面白いのでこのテーマで博士論文をまとめなさい、と言うのです。

私の思惑通りだったので、ホッともしましたが、アメリカ人の教授でも自分が関心のある内容の研究を学生が行うことが、そんなにうれしいのかと思いました。
先生は、その場で論文の章立てまで書いてくれたのです。比較的親切な先生でしたが、こんなに親切にされたことはありませんでした。

日本に帰ることになっていたので、彼に資料をたくさん持って帰ってくると言いました。先生はニコニコしながら、気をつけて行ってくる様にと快く送り出してくれたのです。

私は、父のことも気になりましたが、やっと博士論文を書くことを先生から承諾してもらったことで、本当にホッとしました。この問題の解決には、2年以上の時間がかかったのですから、無理もないことです。

久しぶりの日本は、私には懐かしいと言うより、とても新鮮に感じました。まるで外国のような感じを得ました。また、視覚的に全体がとても小さく感じたのです。そして、日本人の行動が、独特であることをその時はじめて発見しました。

幸い、父の病状もそんなに重くはなく、安定していたので安心しました。
私は、日本に帰ってきたことで、かえって博士論文を完成することに集中することができたのです。

 アメリカの専門職大学院 ~その教育の特徴~

日米の大学における専門教育を比較考察するうえで、社会福祉の専門教育に焦点をあてて述べてみることにします。というのも、両者がとても対照的なのです。

アメリカ合衆国における社会福祉の専門教育は、1898年ニューヨーク慈善協会によって行われたのが最初です。これは福祉の現場職員のための個別処遇技術訓練を中心としたもので夏期のみ開かれる学校でした。これは、言わば現在でいうならば夏休みに開かれる公開講座のようなものでしたが、当時としては画期的なものでした。

この学校は1904年には1年コースとなり、1910年には2年課程に延長され、ニューヨーク慈善事業学校となって発展してきました。さらに1917年、ニューヨーク社会事業学校と名称を変え、1963年にはコロンビア大学社会福祉学部となって、飛躍的に発展していくことになります。

この学部は全米の社会福祉専門教育の模範となっています。現在アメリカには、認定されている大学院レベルでの社会福祉教育機機関は、100校以上ありますが、モデルは多くがコロンビア大学です。

一方、我が国における社会福祉の専門教育は、少数の大学または専門学校において、第二次世界大戦以前から行われてきてはいました。しかし、本格的なものができたのは、1950年代になってからです。その頃すでに大学院も設置されていましたが、すべて、修士課程レベルでした。博士課程も1960年代には設置された大学もありましたが、多くの大学や学生にとっては、まだ一般的ではありませんでした。
 
しかし、1990年代になると、大学院レベルでの社会福祉の専門教育を行っている大学も16校に増え、現在では30校以上に増加しています。

日米両国において、他の大学専門教育に比べて社会福祉の専門教育は歴史的にはどちらもそれほど長いとは言えず、その点においては大きな違いはないといえるかもしれません。しかしながら、その内容においては大きな違いがあります。

まず、第一に、アメリカの社会福祉の専門教育は大学院での教育が一般的であるのに対して、日本では学部での教育が主流です。これは、米国では専門教育が大学院から始まるという教育システムによるところが大きいですが、日本でも大学院レベルでの教育の一般化を考えてもいいと思います。

第二には、米国では、社会福祉実習の期間が最低でも2セメスター(8か月)必修であるの対して、日本では1か月でしかないことがあります。実習は非常に重要なのでこの点は改善しなければならないでしょう。

第三には、アメリカでの講義はほとんどがサイズの小さいクラスでゼミ形式であるのに対して、日本では多くが大教室での講義形式であることが多いことがあります。これではきめの細かい教育は難しいといえるでしょう。

第四には、博士課程の充実があります。アメリカでも修士課程だけで卒業する学生は多いのですが、どの大学でも、博士課程が非常に充実しているのが特徴です。というのはいったん卒業した学生が、何年か働いた後、また大学に戻ってくることが多いことにも起因しています。これは社会に出た後で、もう一度問題意識を持って勉強したいというは学生が多いのと、アメリカの社会にフレクシィビリティがあるからでしょう。

このような傾向は、どの専攻の専門職大学院にも見られる傾向で、社会経験がないと入学できないことも多いのです。日本の大学での専門教育を考える意味で、この日米比較問題はとても重要であると思います。今回は、硬い題材にしてみました。


 一時帰国から戻ってきて

一時帰国から帰ってきて一番最初に思ったことは、ニューヨークのほうが、体が良く動くというか、水があっているという自分を発見しました。

と言っても、夜外出するときには、安全について気にしなくて良い日本の良さも再認識していました。留学は母国である日本とそれとは全く違うアメリカ合衆国という二つの国を、私により深く理解させる機会を与えてくれました。

この事は、学位を取るとか、英語が出来るようになるということ以上に、私にとって大きな成果だったと思います。自分の国を客観的に見ることは、非常に大切なことだと思います。目と耳が二つあるように日米それぞれの国の視点からものを立体的に捉えられるようになったと思います。
これは、留学することの大きなメリットであると同時に、私のアイデンティティをつくるのに大いに役に立ったと思います。

博士論文については、日本にいたときに、かなりの部分を書き終えていたので、もうほとんど出来上がったと思っていました。しかし、これは私の認識不足でした。それは、指導教官のところに、ラフドラフト(下書き)を持っていったときのことです。褒められると思っていたら、「構成が良くないので、書き直しなさい。」と、言われてしまったのです。

先生の言われた通りに書いたつもりだったのですが、とても意外でした。しかし、彼から丁寧なアドバイスを頂いたので、その通り書きなおすことにしました。私の論の展開が荒かったようです。

また、Comprehensive Examinationを通ったあとに20単位を取らなければならないことがわかり、まだ、少し時間がかかると思っていたので、そんなにあせる気持ちはありませんでした。そう簡単に博士号は取れませんよね。

アメリカの大学では、修士号は比較的楽に取れます。それは1年で取れるコースもありますし、一般的には修士論文がないところが多いからです。難しさから言えば、学士号のほうが大変だと思います。4年間をしっかり勉強するのは、意外に大変だからです。大学によってはGPA2.5をキープしなればならないので、卒業するのは楽ではないです。
しかし、やりがいは日本の大学よりもずっとあるので、もし、学部課程に入学したらぜひ学士号を取得してほしいと思います。


 日本語を教えての思い出

TA(ティーチング・アシスタント)として日本語を教えていただけでなく、私は多くの学生に日本語のプライベートレッスンをしていました。その中でかなり長い間、継続的に教えていた人たちがいました。今回はその中で、特に印象に残った人のことを書いてみます。

私が最も印象に残っているのは、ウッドさんというコロンビア大学の学生でした。ライティングと日本語を専攻していました。私が、彼に会ったときもうすでに40歳を超えていました。18歳でコロンビア大学に入学し、もうすでに20年以上経っているとのことでした。

アメリカの大学は、通常無学年制をとっているので、働きながら少しずつ単位をとっていく学生もいます。したがって長く学生生活をおくる学生も少なくありません。しかし、ウッドさんのように20年以上も在学している人は見たことがありませんでした。

彼はとてもまじめな人で、とても好感を持ちました。しかし、少しまじめすぎて日本語の理解が頭打ちになっていたのです。私は少し彼をリラックスさせて、勉強させるようにしました。そして同時に日本語について、いろいろな角度から考えられるように工夫して教えました。また、彼はコンピュータが得意なので、当時アメリカではまだ珍しかったアップルの日本語ソフトをプレゼントしました。すると彼は非常に喜んでますます勉強するようになり、その後日本語がどんどんできるようになっていったのです。

彼とは、個人的にも仲良くなり、何回も家に招待してくれました。マンハッタン郊外の彼の家に行くと、凄くきれいなまだ若い奥さんがいたので、びっくりしました。彼女は、シィティバンクの支店長で、MBAも持っているとのことでした。そんな風にみえなかったので、とても驚きました。

ウッドさんは、それから3年後に無事にコロンビア大学を卒業しました。そのときの嬉しそうな笑顔は忘れることができません。彼の勉学意欲は衰えず、その後、ニューヨーク市立大学の大学院に進学しライティングの勉強を続けました。

私が、日本に帰ってきてから一度彼から電話がかかってきました。彼が日本に来ていたのです。私は、会おうと思ったのですが、日程が合わず会えなかったのは、本当に残念でした。きっと今は、若い奥さんと一緒に幸せに暮していると思います。


 アメリカで、カルチャーイベントに出て

アメリカに来てから、色々なカルチャーイベントで歌いました。アメリカでは、音楽ができることの評価が高いと思いました。日本の大学の先生たちは、私が声楽を勉強していても、そんな暇があるならば勉強しろという態度でした。それに日本では、合唱団で歌ってほしいとは言われましたが、一人で歌ってほしいとは、ほとんど言われたことがありませんでした。

ところがアメリカでは、全く反対でした。アメリカのどこの町でも、一度歌うと必ずまたどこかから出て欲しいと電話がかかってきました。一時は、土日はほとんど歌うことで埋まっていたほどです。先生たちも私が歌うことはとても良いことなので、どんどん歌ったほうが良いと応援してくれます。先生たちとの関係もとても良くなりました。

この事は、日米の文化の違いを示すものだと思います。アメリカ人は新奇なもの、面白いものには素直に反応しますが、日本人はそのブランドなどに影響されるのでどうしても素直な反応ができないのだと思います。また、音楽に対する態度の違いも、関係があると思います。

どちらにしても、私は声楽や合唱をやっていて本当に良かったと思います。アメリカで、こんなに役に立つとは思いませんでした。TOEFL600点よりもずっと有効でした。

面白いこともありました。ニューヨークのインターナショナルハウスで歌った後、面識のない女の人から電話がかかってきたことがあります。私のことをキュートだと言い、一度話したいというのです。会ってお茶をしたのですが、私のファンとのことでした。別にその後付き合ったわけではありませんが、良い友達になりました。楽しかった出来事でした。

変なこともありました。歌った後、部屋に戻ってみると、ドアのところに赤いバラが置いてあるのです。手紙がついていたので、また私のファンかと思いよく見てみると、「with Love Tony」と書いてあったのです。男の人で私とつき合いたいと書いてありました。
丁寧に断ったので、ストーカーにはなりませんでしたが、非常に驚きました。

どちらにしても、歌にまつわるエピソードには事欠きませんでした。

ニューヨークをできるだけ安く楽しむ方法

世界のどこの大都市でも物価は高いです。ニューヨークもその例外ではありません。だからできるだけ安く楽しむ方法を考えました。

以前も書きましたが、ミュージカルやオペラ、大リーグなどのエンターテインメントは、大学が出してくれる1ドルチケットで行きました。この方法はとても良かったと思います。日本の大学もこのような制度があればよいと思います。

また、コロンビア大学のIDがあると、ニューヨーク中の美術館、博物館のほとんどがただで入ることができるのです。私は、この事をフルに活用して楽しみました。マンハッタンはそんなに広くないし、交通も便利で安い(どこまで行っても地下鉄は1ドルです)ので本当に良かったです。

大学が紹介してくれる週末ホームステイには、よく参加しました。5ドルで2泊3日が過ごせるのですからとてもリーズナブルでした。色々な家庭を知ったことも良い経験でした。
コロンビア大学のOBはリッチな人が多いので、驚くことも多かったです。
家の中に大きな池やゴルフ場まである方もいました。

ミュージカルやオペラを半分だけ、ただで観る方法を思いついて楽しんだこともあります。それは、途中の休憩で出て行ってしまう人から、チケットをもらうという方法です。ニューヨークの人は、つまらないと思うと途中で帰ってしまう人が多いのです。
大学の友人(アメリカ人)にそれを言うと、彼も同じことをやっていると言うので、びっくりしたことがあります。

また、学期の初めには学内のいろいろなところで、フリーのパーティーをやっているので、できるだけそれに参加しました。知り合いも増えるし、ランチも食べられるので一石二鳥でした。

また、お年寄りの話し相手をするボランティアにも参加しました。すると、ランチくらいは出してくれるのです。お礼にミュージカルの1ドルチケットをあげると、すごく喜んでくれました。そのチケットには正規の値段が書いてあったので、余計に喜んでくれたのだと思います。1ドルでも、席はとても良いところだったんですよ。

こんな感じでニューヨークでは、情報と頭を使って大いに楽しみました。


アメリカの竜巻体験

アメリカでは、日本では体験できない気候を経験しました。

その最も代表的なものは、竜巻(トルネード)です。
その凄さは、本当に筆舌に尽くしがたいものでした。
アトランタにいたときのことです。今日は竜巻が来そうだと言うニュースが流れていました。私はそんなに気にしていなかったのですが、学校へ行くとなんだかみんな緊張しています。

それは、授業が終わって帰ろうとしたときでした。先生がまだ学校にいたほうがよいと言うのです。それは、竜巻が近づいているからでした。みんな先生の言うことを聞きましたが、日本人の一人だけ自分はバイクがあるから大丈夫だといって出て行きました。

その5分後です。あたりが真っ暗になって、もの凄い風と雷がやってきました。まるで、雷と台風と地震が一度に来たようでした。その時窓のすぐ近くを真っ黒いものが横切っていくのです。幅が10メートルくらいで高さはわからないくらい高かったです。凄い勢いで回転しています。それだけでも怖いのですが、それが「ジージー」と音を鳴らして、まるでゴジラのようでした。怪獣映画の1シーンを実際に体験したといってもよかったです。同時にいくつかの窓ガラスがバリバリと音を立てて割れていくのです。

さらに驚いたのは、近くの家がそっくりなくなっているのです。私達は大学の建物だったので大丈夫でしたが、それでも怖かったです。しばらくして、天気が落ち着きましたが、アメリカの竜巻は、日本とは比べ物にならないほど大きいし、もの凄いパワーなので、ほんとうに危険だと思いました。

先生の言うことを聞かずに出て行った日本人の学生は、その後しばらくして学校に戻ってきましたが、バイクが壊れてしまい学校に戻らざるを得なかったとの事でした。本当に死にそうになったと凄く反省していました。やっぱり地元の人のいうことは聞くものだと、私は思いました。

本物の竜巻は、野茂投手のトルネードよりもはるかに凄いものだと実感した私でした。


コロンビア大学の日本人留学生たち(1)

コロンビア大学には、多くの日本人留学生が在籍していました。大きく分けて三つのグループに分かれていました。

一つ目は、企業や官庁から派遣されて来ている人たちです。ほとんどが正規留学生でMBAの学生が多かったですね。日本の大学は、東京大学や一橋大学など日本の有名大学を卒業している人がほとんどでした。優秀で如才ない方が多かったと思います。印象的なのは、飲み会などでリラックスすると、大学受験のときのことを話し出す人が多いのです。「君はデルタン世代?それともシケタン世代?」などという具合です。また、TOEFLやGMATなどの点数を競い合う光景によく遭遇しました。
多くは仕事の一環として留学してきているので、学問的興味よりいかにして楽に効率的に勉強して卒業するかを考えている人が多いように思いました。

二つ目のグループは、自費留学の人たちです。この人たちは、この中でも二つに分かれています。ほとんど自分で学費をためてきていました。コロンビアでもワークスタディやTAをやりながら勉強していました。頑張り屋の人が多かったですね。修士だけでなく博士号取得を目指す人もいました。ただ、頑張りすぎて大丈夫かなと思われる人もいて、心配になりました。中には10年以上かけて博士号をとった人もいるんですよ。

もう一つの自費留学のグループは、付属の英語学校(ALP)から正規の過程に上がろうとしてそこで詰まってしまっている人たちです。この人たちは、裕福な家の方が多かったと思います。最初は、意気込んで勉強しているのですが、だんだん難しいことがわかるとやる気をなくしてダラダラしている人もいたようです。多くは日本の大学を出ていて、大学院を目指していましたが、実際に入学できた人は多くはなかったように思います。

最後の三つ目のグループは、英語の勉強のためだけに英語学校(ALP)に来た人たちです。人数的には一番多かったと思います。この人たちは、短期で来ている人も多く、半分観光を目的にしている人もいました。この中には、名前を言えば皆さんが良く知っている芸能人も何人かいました。

以上のようなところですが、私は、だんだんと色々な日本人留学生の相談をうけるようになりました。そのことは、次回に書きたいと思います。


コロンビア大学の日本人留学生たち(2)

私が、色々アドバイスをした日本人留学生の人たちは、主に自費留学の学生でした。自費留学の人たちの中にも真面目に勉強しようとする学生は多いのですが、勉強の仕方でつまずいて伸び悩んでいる人たちが大勢いたのです。

その中でも、真面目に勉強に取り組みそうな日本人のアドバイスを自然にするようになりました。その人たちの問題は以下のようなものでした。

① 英語学校(ALP)のレベルが上がらない。
② 英語学校(ALP)のレベルが上がらないので、TOEFLの勉強をするがそちらも点数が上がらない。
③ たとえ上がっても、その後どの大学院に入ったら良いかわからない。
④ 大学院への入学の仕方がわからない。
⑤ ブランドだけで大学院に入ろうとしていて、自分の適性を考えていない。

私は、このような問題があることを分析し、個々のケースによって修正をしながらアドバイスをしていきました。

①に関しては、最も重要なのは学期の最後に行う作文のテストなので、作文を毎日一つは書くことを義務づけました。
②についてはTOEFLのことは考えないで、ALPのレベルを上げることに集中させる。
③私の経験に基づいて、その人にあった大学院の選び方をおしえる。
④わかりやすくその人の身になって、大学院の入学方法を教える。
⑤ブランドだけで大学院に入ろうとすることを止めさせ、自分の興味や適正をかんがえさせる。

このような方針でカウンセリングやアドバイスをしていきました。するとしばらくして、その効果が出てきたのです。まず、みんなのALPのレベルが上がり始めました。

そして、入学を許可されるレベルに達する人も出てきたのです。
今まで、1年以上停滞していた人も、一つまた一つと上がっていったのです。


コロンビア大学の日本人留学生たち(3)

私がアドバイスした日本人留学生達は、TOEFLなどの標準テストは、あまり得意でないタイプの人が多かったのです。しかし、英語学校(ALP)で勉強していたので、英語の力はかなりついていました。したがって、私はその人たちに入学する大学院はコロンビアに絞るべきと言いました。

はじめは、大学院に入れることさえも信じてもらえませんでしたが、話していくうちにわかってもらえるようになりました。通常コロンビアの大学院にはGREというテストが必要ですが、マスター(MA)では学科や専攻によっては、GREを受けなくても良いところあるのです。

GREは、大学院に入学するために必要な標準テストで、英語と数学でなりたっています。英語は、ネイティブのアメリカ人でも簡単にはできないほどレベルが高く、とても普通の日本人では太刀打ちできないほどのものです。それに比べて、数学は易しく日本の国立大学を卒業している人にとっては、満点を取ることも可能です。GREが必要な大学や学科では、英語と数学で1200点あれば、まず大丈夫とされています。しかし、たとえ数学で満点をとっても、800点なので英語で400点取らなければなりません。400点というと偏差値40ですので、一見簡単そうですが、日本人にとっては、とても難しいのです。難しさはTOEFL600点よりもはるかに難しいと思います。

私がアドバイスした日本人留学生達は、私立文系の人が多かったので、数学も得意ではない人も多かったのです。そんなわけで、英語学校(ALP)の勉強に集中させ、レベル9や10にリーチすることを目標に勉強してもらいました。

そうして、一人また一人と大学院に入学を許可され、最終的には10人ほどになっていきました。そして、全員が修士号(MA)を取得したのです。中にはその後、ハーバード大学の大学院や、オックスフォード大学までいった人もいます。私は人間の力はわからないものだと思いました。

日本人留学生で、TOEFLやGMATで高得点を取っている人たち(いわゆる優等生の人たち)にも、問題がなかったわけではありません。この人たちの中にテストの点数はクリアーしていても英語ができていないとみなされてしまう人たちが、少なからずいたのです。これは日本人によく見られる傾向で、テストの点数は高くても、実践的な英語ができないのです。コロンビア大学の先生達もよくこのことは知っていて、日本人には英語学校(ALP)を平行して取らせるようにしていました。

他の国の留学生には、そのようなことはほとんどないのに日本人留学生には、よくあることというのは、興味深いことだと思います。日本人は英語の実力をつけることよりも、受験テクニックで点数をクリアーしようとする学生が多いからだと思います。

最近も、英語標準テスト(TOEFLなど)の点数が高くても、実際には英語ができない人たちが多くて問題になっていますが、そんなに無理してテスト勉強をするよりも、何年かアメリカやイギリスに留学して本当の英語力をつけたほうが、良いと思います。


dual degree program(ディアルディグリープログラム)

コロンビア大学では、dual degree program(ディアルディグリープログラム)が発達しています。これは、同時進行で2つの違った専攻での学位を追究できる構成のプログラムです。例えば、MBA(経営学修士)と同時にJD(Juris Doctor:法学博士)の学位を取得したり、環境学でのMS(Master of Science)とMBAを取得できるプログラムを指します。

通常、大学院レベルのプログラムですが、コロンビア大学ではジュリアード音楽院とも提携していて、5年で両大学の学位が取得できます。私の知り合いのアメリカ人の女性はこのプログラムのあとMBAも取りました。今は、ウォールストリートで働きながら、ピアニストとしても活動しています。また、別の知り合いのアメリカ人(男性)は、メディカルスクールとロースクールを同時に通っていました。法医学を勉強していると言っていましたが、将来はメディカルクリニックと弁護士事務所を同時に開く予定だそうです。

日本でもdual degree program(ディアルディグリープログラム)は、最近になって開設されるようになってきました。秋田の国際教養大学では、留学先の一つである米国ミネソタ州のウィノナ大学(Winona State University)とデュアル・ディグリーの協定を結んでいます。これにより、最短4年間で本学とウィノナ大学の学位を取得することができるそうです。 この大学では、1年間の留学を義務付けていますが、それに加え、滞在期間を1年延長し、一定の条件を満たす場合は、2つの大学の学位を取得することができます。

一つの大学から、複数の学位が取得できるプログラムは、日本では東京工業大学にあります。これは、先端科学技術に関する専攻の博士学位と技術経営修士(専門職)学位のデュアル取得を目指すものです。
対象者は、東工大の博士後期課程(イノベーションマネジメント研究科を除く)の学生および入学予定者です。
入学時期は4月と9月ですが、選抜はかなり厳しそうです。

日本では、まだ、一般化していないようですね。コロンビア大学では、日本人留学生でも、MS(工学修士)とMBA(経営学修士)を同時に取得した人もいました。dual degree programはアメリカでは、どの大学でもかなりもう一般化しています。日本の大学でも、どんどん取り入れて欲しいと思います。


博士論文と最終面接試験(ディフェンス)

留学生活も8年目に入っていました。博士論文のほうもようやく完成に向かっていました。年が明けて、春学期が始まると、指導教官の先生がそろそろ仕上げに入るようにと言われました。という事は、もう大体これで良いのかと、少し目の前が明るくなりました。

先生も毎週の指導に力が入ってきていました。この頃には、科目としては彼の「博士論文指導」しか取っていませんでした。だから、時間的には楽だったのですが、精神的にはかなり大変でした。結局、A4ダブルスペースで200枚以上ある本文を5回くらい書き直しました。このころ私は、かなり疲れていました。もう日本語を教えることも、歌を歌うこともできなくなっていました。

したがって、指導教官からもうこれで良いと言われたときは、本当に嬉しかったです。しかし、これで終わりではないのです。まだ、ディフェンスという最終面接試験が残っていました。私は、ただ数十分面接して終わりかと思っていたのですが、そんなものではありませんでした。

面接官は、指導教官を入れて4人でした。ティーチャーズカレッジから3人とコロンビアの文理学部(Arts and Science)大学院から1人でした。私が論文の全体の目的、主旨などを説明し終わると、いよいよディフェンスが始まりました。

4人の先生から、色々質問を受けるのですが、これが相当きついものでした。4人の先生達は私の論文を本当によく熟読していました。特にきつかったのは、コロンビアの文理学部(Arts and Science)大学院からきた、先生でした。鋭い質問を次々と私に浴びせて来るのです。そのとき、指導教官の先生は、ほとんどヘルプしてくれませんでした。

結局、入れ替わり立ち代り先生方の質問のシャワーを浴び、終わったのはもうあたりが暗くなっていました。実に、6時間以上かかったと思います。先生方は、交代に休んでいましたが、私は、一切休めませんでしたので、終わったときは、もうフラフラでした。

最後に、修正箇所の指摘を受け、ディフェンスは終わりました。私は、まだ修正をしなければならないのかと思いつつ、終わったことに本当にホッとしたし、嬉しかったです。こうしてようやく私は、博士号を取得することができたのです。


アメリカ留学を総括して思うこと(1)

わたしは、アメリカ合衆国における大学教育振り返ってみると、日本のそれと比較してみると極めて学ぶことが多いように思いました。

まず、第一に言えることは、アメリカの入学システムが多様で、大学入試センター試験にあたるSAT、ACTも複数の受験チャンスがあるために高校生に与える心理的不安を低減させていることです。私も一度SATを受験したことがありますが、入学試験とは思えないような和やかな雰囲気であったことは実に印象深く記憶に残っています。
この点、我が国の大学入試が一発勝負であり、それも時期としては年に一度のチャンスしかないために高校生の抱いている大学入試に対する不安を助長させている現実とは、極めて対照的です。このような日本における傾向は、何をどういうプロセスで学んで自分のものにしたかというよりも、試験のための勉強(学習)という側面を強化し、実利的な目的のためでなければ、学習しないという傾向をも生み出しています。

また、アメリカの大学制度が非常にフレクシィビリティに富んでいるために、アメリカの学生は何をいつから学習し、身につけたらば良いかをじっくり考える余裕が与えられており、途中からのコースの変更や、やりなおしなども自由で本人の意思にまかされているのが普通です。これに対し、我が国の大学制度は自由度が少ない上に、何をやりたいかもわからない高校生が、とりあえず大学に入学するという例が多いと思います。
そして、後で自分のやりたいことが発見できたとしても、そこには直接的には自分のキャリアとは関係のない大学入学試験という壁があり、結局あきらめざるを得ないことになります。そして、たとえ大学入試を突破し自分の希望する社会的にもレベルの高いとされている大学に入学できたとしても、そこでもう力を使い果たしてしまい学習したり、研究したりすることに対して興味を失ってしまっていることも多く見受けられます。

発達心理学的にみても、あまり受験勉強をやりすぎるとクリエイティビティがなくなり、意欲も減少すると警告している研究もあります。この傾向は年齢が低くなればなるほど強くなるそうで、できれば人格が安定するまで受験勉強は待ったほうが良いとされています。
このような現象はアメリカの大学にはなく、学生が極めて元気活発で、同時に知的な好奇心を失うことなく持ち続けているのが普通です。これは、受験勉強によって無意味な疲労をしていないことによると考えられます。

ただ、アメリカの大学教育も完全なものではなく、問題点も多く持っていることを付け加えておきます。一部のトップレベルの大学を除いては、一般の大学では学生の学習能力の低下に頭を悩ませているし、18歳人口の減少で、大学間でのサバイバル競争はすでにかなり前から始まっているからです。また、アメリカでは優秀な学生を、どんどん伸ばしていくシステムなので、個人差が大きくなってしまう問題があります。

しかしながら、アメリカにおける大学進学の現状は我が国のものとは大きな違いがあり、その様相は、私たちに日本の大学入試及び大学教育の将来について大きな示唆を与えてくれることは確実です。


アメリカ留学を総括して思うこと(2)

まとめとして、大学教育をどう改革したら良いかを、アメリカの現状を踏まえて、それを我が国の現状の中でどう取り入れることができるかを中心に述べていきます。

 第一に大学に入学できる時期を少なくとも年2回にすることが必要でしょう。同時に大学入試センター試験を年に3回は受けることができるようにすることも必要です。こうすれば浪人の問題も少なくなると考えます。ただ、アメリカのある大学のように年5回などとなると、入学可能時期としては多すぎると思われます。なぜなら学生がどんどん変わってしまいこれは大学としても教育する上で問題が起こると考えるからです。
これと同時に行ってほしいのは無学年制の採用です。学年という概念をなくして、単位数でその学生の勉強の進み具合を評価した方が、学習効果が上がると考えます。つまり、たくさん単位を取った学生、学年にかかわらず早く卒業できるようにするのです。授業料の問題は一単位いくらとすれば問題はありません。

また、学生が履修する科目を減らして、一つ一つの科目をもっとしっかり教育するようにして欲しいと思います。日本では、学生がたくさんの科目を履修している割には、身についているようには思えません。

 また、編入(トランスファー)をできるだけ可能にし、単位も大学相互で認め合うようにできることは、ぜひ行ってほしいです。大学生が余り勉強しないことが問題になっていますが、もし良い成績をとって行けばレベルの高い大学に編入ができるとなると、学生たちは勉強すると思います。特にこの際の学習の内容は自分の興味のある専門であるために受験勉強とは違って身につくでしょうし、虚しさも無いと思います。

 次に、入試の合格基準を学力審査だけで決定せずに、クラブ活動などの他の要素を加味して総合的に決定してほしいものです。人間性とはできるだけで多様にまたその個人の個性に応じて発達すべきであると考えるし、また、そのような視点から評価されるべきだとも考えるからです。しかし、多様な視点から総合的に判断するためには、評価者の主観によらない客観性が要求されます。そのためには入学希望者への面接も少なくとも3人の専門官によって行いその合議で評価の決定がなされなければならないでしょう。このような手続きは時間を要するものですが、大学にとってどんな学生を選ぶかということは生命線とも言うべき重要なものなのでぜひ行ってほしいと思います。

 学部レベルの入学試験とは直接関係はありませんが、大学院教育と社会人教育の推進は、今後の大学教育の発展を考える上で重要な点となるでしょう。今後、18歳人口の減少がますます起こると考えられますので、その対策としても、社会人のためのリカレレント入学を奨励していかなければならないでしょう。すでにアメリカをはじめ、ヨーロッパの各国では、25歳以上の大学在籍者の存在は何も特別なものではなくなっています。スウェーデンなどでは60%以上になっています。

 これまで、私の留学経験を通じて、様々な事を書いてきましたが、アメリカ留学を希望する方の何らかの参考になれば、幸いです。


アメリカの大学と日本の大学とでどちらが入学しやすいか?

アメリカの大学と日本の大学とでどちらが入学しやすいか?これは難しく興味深い問題です。

一般的には、日本の大学のほうが入学するのが、難しいと言えるでしょう。
その理由としては、入学試験の科目数が日本の方が多いことがあります。もし、日本の国立大学に入学したければ、大学センター試験を受けなければなりません。科目数は平均5科目程度だと思います。その後、2次試験を受けなければなりません。試験機会も年に一回です。

それに対して、アメリカでは通常SATを受けますが、数学と、英語だけです。数学は日本の高校入試より易しいと思います。英語は日本のものよりは難しいですがセンター試験の国語と比べれば易しいと思います。このテストを偏差値で言うと55くらい取れば、後は内申書だけで多くの州立大学に入学できます。しかし、卒業率は50%以下です。ここから、アメリカの大学は、入りやすくて出にくいということが、一般化したのでしょう。試験機会や入学機会も年に何回もあります。したがって、一般のアメリカ人には大学入試が難しいとか、浪人するという概念はありません。

それでは、ハーバード大学のような、アイビーリーグ校ではどうでしょうか?SATはもちろん必要ですが、ほとんどの受験生が満点近くを取ってしまうので、選抜の基準にはなりません。また、様々な観点から、本当に飛びぬけた能力があるかどうかを見るためにただ成績が良かったり、勉強ができるだけでは入れないという難しさがあります。
アイビーリーグ校では、たとえ入学を申し込んでも(アプライしても)入学できる確率は、8%以下です。実に、倍率は10倍以上です。アイビーリーグ校では、卒業率は90%以上なので、入りやすくて出にくいというアメリカの一般の大学の性格とはかなりかけ離れています。

また、アメリカ人にとっては入学しやすい大学でも、留学生である日本人にとっては、入学しにくいという事もあります。なぜなら、一般にはTOEFLの点数が基準点になかなか到達しないことがあるからです。TOEFLで高得点を取るにはセンター試験の英語で満点を取るよりもずっと難しいと思います。また基準点を取ったとしても、英語ができないと見なされれば、条件付入学になったり、英語のクラスを取らされたりします。

以上のように、どちらが難しいかは、一概に言えないというのが正しい見方だとおもいます。


アメリカのレガシー入学制度

レガシー制度とは、主にハーバード大学などのアイビーリークの大学に存在する制度です。
例えば、その大学の出身者で多額の寄付金を出身大学に寄せた人の受験生は、正規の入学基準を満たしていなくても入学できるという制度です。ブッシュJr元大統領はエール大学にレガシー制度を利用して入学したといわれています。

ブッシュ家は、祖父も父親もエール大学出身です。同じようなことは、家族のほとんどがハーバード大学出身のジョン F ケネディの場合もいえるといわれています。現在もレガシー制度はありますが、実際入学してみると、誰がそうだか全くわかりませんでした。数的にはそう多くはないと思います。オバマ大統領(カリファルニア オキシデンタル大学àコロンビア大学àハーバード大学法学大学院)のように自力でキャリアアップしていく学生が大半でした。

多くの場合、レガシー制度は、アイビーリーグ校に代々で優秀な学生を入学させれば、今様上流階級を形成できるという、アメリカ人の伝統的な考えによるものと思います。
これは、イギリスの流れを組むアメリカとしては、ごく自然な社会の仕組みと言えるかもしれません。

日本の大学入試は、中国の科挙の影響からか、アジア的な観点で見がちなので、どうしても理解しにくいと思います。国によってそれぞれに文化や社会的土壌がありますから、これもアメリカの文化だと寛容に見ていくのが妥当であると思います。レガシー制度は日本のコネ入学とも違う感覚があります。また、アメリカでも批判があるのも事実です。アメリカでは、推薦状が大きな影響がありますが、これは感覚的にはレガシー制度に似た側面があります。

実際、私も色々な学生のために推薦状を書いてきましたが、やはりコロンビア大学に対して一番利くようです。これは、私がコロンビア大学のOBであると同時にドクターを取ったことによると思っております。

大学入試は、やはりその国の文化に大きく影響されていますので、どういう形がベストということはいえないと思います。したがって、各国の良い点を参考して、自国にとりいれていくことが良いのではないかと考えます。


アメリカに留学して良かったこと(1)

アメリカに留学して良かったことは、本当にたくさんあります。
その第一は、本当に思い切り勉強できたことです。アメリカの大学では、語学のハンディもあるので、全力で勉強しなければ、ついていけませんでした。そういったハンディがなくても、決して楽ではないのが、アメリカの大学でした。

そのせいか、アメリカの大学で勉強したことのほうが、日本の大学でのものより、ずっと身についていることに、後で気がつきました。これは、本当はおかしなことです。なぜなら、日本の大学のほうが、語学的なハンディがあるわけもないので、学習効率が良くなければなりません。

実際はその全く反対だったのは、本当に印象的でした。私は、日米で約7年ずつ計14年間大学教育を受けましたが、アメリカでの勉強のほうがずっと内容が濃かったように思います。アメリカでは、5校ほどの大学で勉強しましたが、その世間的な評判やレベルに関係なく、先生方は教育に熱心でしたし、学生も良く勉強していました。それに比べて日本の大学は甘いかなと思います。

大学教育に限らず、日本の学校では、その時のテストや課題をパスすれば、後は知らないというか、ほとんど勉強したことを忘れてしまう傾向があります。これは、本当はもったいないことです。忘れてしまうのは、暗記偏重の傾向があるからかもしれません。これに対して、アメリカでは、自分の考えをまとめるという課題が多かったと思います。もちろん覚えなければならないこともありましたが、無理に暗記を強いられることはありませんでした。

私が、高校生のときの英作文のテストは、和文英訳のみで、それも教科書に書いてある英文をただそのまま暗記して、一言一句全く同じに書かないとバツになるというものでした。
これでは、力がつかないと思った私は、一度自分なりに英文を作って解答してみたことがありました。すると、100点満点で10点になってしまったのです。帰ってきた答案をよくみると別に間違っているわけではありませんでした。だいたい英作文の試験なのに、和文英訳だけというのもおかしかったと思います。採点をやりやすくするために、一つの答えだけを正解にする先生方の方針に強い憤りを感じました。高校時代に習った英語は、その後アメリカに留学したときには、全く役に立ちませんでした。

これは、極端な例ですが、このような傾向は日本の学校教育にはありがちなことです。その意味からも、私はアメリカに留学して良かったと思っています。


アメリカに留学して良かったこと(2)

アメリカ留学してよかったことのもう一つは、日本の大学では勉強できない色々な科目を勉強できたことです。
日本の大学では、学科専攻が入学したときから決まっているので勉強する内容が限定されます。しかし、アメリカではその点自由で、基本的には何をとってもいいのです。だから学部ではダブル専攻は当たり前で、中にはトリプル専攻の学生もいます。大学院でも二つの学位を同時に取る学生は少なくありません。
学位をとらないまでも、大体どんな科目でも履修できる権利が学生に与えられています。

私の場合は、専攻の教育学、心理学系の科目のほかコンピュータ関連、声楽、音楽史、数学教育などいろいろな種類の科目を取ることができました。
専攻でない科目を履修しても区別されることはありませんでした。これはある意味で厳しい面を持っています。

日本の大学でも専攻外の科目を履修できないことはないのですが、色々手続きが面倒だったり担当教授の許可を得なければならなかったりして面倒なのです。
日本の大学でも自由に履修できるようにすれば良いと思います。自由選択の幅を多くして、学生に学問する自由を与えるべきだと考えます。それで混乱することはないと思います。

日本の大学では必修科目が多すぎるのと、教員免許などの資格を取るための科目が多すぎると思います。それで身につけばいいのですが、ほとんど単位を取ったら忘れてしまうことが多いのが現状です。
それに対して、アメリカの大学で取った科目は、しっかり身についていることが多いのです。

それは、専攻外で取った科目でも同じでした。
この事実は注目すべきだと思います。日本の大学教育の問題点を表している一つだと思いますし、反面アメリカの大学教育の長所を表しているものでしょう。


コロンビア大学大学院を卒業して

コロンビア大学で教育学博士号を取得したとき、嬉しさもありましたが、ホッとした気持ちの方が大きかったです。

そして、すぐ帰国して休むまもなく北海道のある私立大学で教えることになりました。
そこに米国留学科というコースがあったので、私が役に立つことがあるかと思っていました。

その大学はレベル的にはそれほど高くはなかったのですが、米国留学科にはかなりやる気のある優秀な学生が多くいたので、私は俄然やる気になりました。
提携校がいくつかあり、TOEFLが低くてもきちんと勉強すればアメリカへ留学できるシステムになっていました。

提携校を増やすためにノースカロライナの大学と姉妹締結の仕事もしました。その時
日本での単位を卒業単位の半分を認めてもらうのと、日本でのGPAを認めてもらい
その上にアメリカのGPAを加算してもらうようにしました。
この方法の効果はとても大きく、他の提携校の卒業率を大きく上回りました。

と言うのは前半の2年のGPAが4.0ならば、アメリカでのGPAは1.0でも平均で2,5となり卒業できるからです。
これは、極端な例ですが、このシステムのお陰で多くの学生が卒業できたのは確かです。
その中では、優秀な成績を収めた学生のいたので、卒業後コロンビア大学の大学院に推薦しました。もうアメリカの大学で学士の学位をとっているのでTOEFLは免除になっていました。本当はGREと言うテストも必要なのですが学科によっては必要ないところもありましたし、あっても成績ががよければそんなにスコアは問題にならない場合もあったのでアプライさせることにしたのです。
すると、何人も合格する学生が出てきたのです。
どんな事例があるかは、次回に述べることにします。



コロンビア大学大学院 卒業後

米国留学科の学生たち

米国留学科の学生は毎年120名が提携大学に留学して行きました。

60単位は日本で取っていくので後60単位をアメリカの大学でとれば卒業です。
これは一見簡単に感じますが学生達にとってはとても難しかったようです。
しかし、日本でのGPAをキープすることを認めてくれた大学と単位は認めるが日本でのGPAは認めない大学では、卒業率に大きな差が出ました。
これは、ある意味当然のことでした。

前者では、卒業率は80%でしたが後者では30%ほどでした。大学によってポリシィが違うので致し方の面もありましたが、日本にいる学生の保護者の方々には理解できなかったようです。学年と言う概念がアメリカの大学にないことも誤解を生む要因になりました。

それでも、大学院まで進学しようとする学生も少なくありませんでした。
アメリカでは専門教育は大学院からするので、当然のことでしたが親から見ると大学院が一般的ではなかったので、軋轢はあったようです。
大学院に進学した学生は、コロンビア大学やハーバード大学などアメリカの一流大学に進学した者も多く、その後その学生達は一流企業や大学の教員など
専門職に就いたものも少なくありませんでした。

アメリカ留学の成果は、とても個人差が大きく日本の大学の比ではありませんでした。
ここが、アメリカ留学の面白さでもあり、怖さであると実感しました。
この大学では10年ほど勤めましたが、米国留学科が募集停止になってしまったこともあって止めることにしました。そして留学カウンセリングの仕事をやることになりました。



アメリカの教育(初等教育)

アメリカの初等教育は、表面的には日本のそれと似ています。それは戦後の日本の教育はアメリカの制度を模倣したことによるからでしょう。しかしその実態はわが国のものとはかなり違っています。私がいくつかの学校を見学したところその違いが明確になりました。

その一つはクラスのサイズです。日本に比べて20人ぐらいでずっと小さいです。それと学力別、教科別になっている事が多く学習が個別化されています。かなり低学年でもいつも同じクラススメートと一緒にいることはないのです。この事はメリットがあります。いじめが起こりにくいことです。

次に学年がハッキリしていないことです。完全に無学年制のところもあります。これも学習の個別化の一つだと思います。よくアメリカの学校には飛び級があるといいますが、飛ぶのではなく早く終わると考えたほうがいいでしょう。
私が見たところでは優秀な児童生徒が学習の段階を飛び越していくのではなく、その段階は同じように段階を経ていくのですが、その速度が速いだけです。

また校舎がとてもファンタジックな色合いのものが多く、子どもたちに夢を与えようとしている学校が多いと思いました。それに比べて日本の学校は殺風景なような気がします。
子ども達は非常に元気があると思いました。

先生達も教えることへの動機付けが強いと思いました。大変参考になりました。




アメリカの教育(中等教育)

一般的にアメリカの中等教育は、多岐にわたっていて一概には言えません。
ただ、単位制で原則としては無学年制ですからその点は日本のそれとは大きく異なっています。

もう中学校段階で大学のようなシステムになっていますから生徒が自由にクラスを履修できます。この点はとても良いとおもいます。
ホームルームはあっても週に一回程度なので、日本のようにいつも同じクラスメートといるわけではありません。

日本のようないじめがアメリカでは少ないのはそのせいかとも思います。
雰囲気は明るく生徒たちは元気がいいと思います。
ただ、生徒たちの学力に差ができてしまうという問題点もあります。
生徒たちはあまり気にしていないようですが。

良い点としては、生徒が好きな勉強に集中できることです。そして大学受験のための勉強をしなくてもいいところでしょう。
大学準備校のプレップスクールでさえ受験勉強をすることはありません。
もちろん一流大学に入るためには、かなり勉強しなければなしませんが、「受験勉強」はしなくてもいいのです。

「受験勉強」へのプレッシャーがないので、のびのびしているのだと思います。
この点もわが国の教育に取り入れることができたら良いと思います。




今まで教えたことのある科目

私は日米で9校の大学に在籍し、6枚の卒業証書を得ました。
履修した単位は合計で500単位にも及びました。
沢山の科目を勉強してきました。その結果色々な科目を大学で教える機会を得ました。以下のようなものです。

心理学 教育心理学 児童心理学 発達心理学 教育相談論 教育方法論 人間関係

社会心理学 精神衛生学 精神保健 乳児保育I,II 言葉 教師論 教育統計学

教職概論 教育原理 保育内容総論 保育実習理論 保育実習 幼稚園教育実習事前指導

養護に関する基礎的事項 社会教育課題研究 社会教育実習 社会福祉概論 保育原理

人文学概論 英語I,II  英語コミュニケーションI,II  実務英語 対象言語学

外国人のための日本語(初級、中級、上級) 教育評価 音楽I 声楽 数学

社会福祉演習I,II 卒論指導

これが良いことなのかどうかはわかりませんが、あまりないことだと思うので
ここに書きました。




全国童謡歌唱コンクール参加について

日本に帰ってきてから、人の前で歌を発表する機会を探していました。
すると全国童謡歌唱コンクールというコンクールがあるのを知りました。
その中に大人の部と言うのがあり、課題曲のなかから一曲選んで独唱するというものです。私は早速テープを送っていました。

すると、地区の決勝大会に出るようにとの連絡を受けました。それがきっかけになり15回以上ほぼ毎年出るようになりました。それは以下の通りです。

第9回全国童謡歌唱コンクール北海道ブロック決勝大会出場(大人部門入賞)
第10回全国童謡歌唱コンクール北海道ブロック決勝大会出場
第11回全国童謡歌唱コンクール北海道ブロック決勝大会出場(大人部門審査員奨励賞受賞)
第12回全国童謡歌唱コンクール北海道ブロック決勝大会出場(大人部門 最優秀賞受賞)
第12回全国童謡歌唱コンクール全国大会出場
第15回全国童謡コンクール北海道プロック決勝大会出場(大人部門優秀賞受賞)
第16回全国童謡コンクール北海道プロック決勝大会出場(大人部門優秀賞受賞)
第17回全国童謡コンクール北海道プロック決勝大会出場(大人部門優秀賞受賞)
第18回全国童謡コンクール北海道プロック決勝大会出場(大人部門優秀賞受賞)
第19回全国童謡コンクール北海道プロック決勝大会出場               第20回全国童謡コンクール北海道プロック決勝大会出場(大人部門優秀賞受賞)
第21回全国童謡歌唱コンクール北海道ブロック決勝大会出場(大人部門 最優秀賞受賞)
第21回全国童謡歌唱コンクール全国大会出場
第23回全国童謡コンクール北海道プロック決勝大会出場(大人部門優秀賞受賞)
第24回全国童謡コンクール北海道プロック決勝大会出場

これはとてもいい経験になりました。コロンビア大学で声楽も勉強していて良かったと思いました。




留学センターのこと(1)

札幌の留学センターで働くことになって、一番驚いたのは留学といっても正規留学は少なくほとんどの人は語学学校やワーキングホリデイばかりだったことです。所長さんに頼んで、正規留学のサポートもするという宣伝をチラシやネットで流してもらいました。
あまり期待はしていなかったのですが、しばらくすると反応がありました。

一人目は、医師の方でした。MBAか医学関係の勉強をアメリカの大学院でしたいとの事でした。GMATやTOEFLのスコアはやや低かったのですが、今までの医師としての業績が素晴らしかったので、いくつかの経営大学院や公衆衛生学の大学院にアプライしてみました。

すると、サンダーバード国際経営大学院とニューオリンズのチューレーン大学の公衆衛生大学院に入学を許可されました。私がどちらに行くのかと聞くと、両方行ってみたいというのです。そこで、サンダーバードでMBAをとってからチューレーンに行くことにしました。と言うのは、サンダーバードは1年と3ヶ月くらいでMBAが取れるからです。そしてチューレーンではサンダーバードの単位も何単位かは認めてくれるというのも理由でした。二つの学校に両方とも行きたいという人はいなかったので少し驚きました。

この方の場合も、アメリカに行った当初は、大変なこともあったようですが、3年後無事に2つの学位をとって帰国されました。今は大きな病院を経営なさっています。

札幌には正規留学をサポートするところは少なかったようで、その後もかなり多くの方が相談に来ました。それもかなり優秀な方が多かったようです。中には東京大学や京都大学を卒業している方もいました。この人たちは自分でもかなり調べていたようですが、やはり専門家のサポートが必要と言うことで、来談されました。

アメリカ留学は、一見簡単そうですが、実際手続きをしてみると意外に難しいものです。
特に一流大学に進学することは、予想以上に難しいといえるでしょう。




留学センターのこと(2)

何人かの依頼者のケースを書いていきます。本人のプライバシーがあるので
事実とは少し変えて書きます。

Aさんは東京大学を卒業しましたが、希望の会社に就職できませんでした。
しかし、その会社で頑張ったので、海外業務の仕事を任されました。幸い英語が得意だったので問題ありませんでした。まだ独身でしたし仕事に集中していたのでかなりのお金がたまったのです。そこで彼は考えました。アメリカに留学してキャリアアップをしてみようと。そんな時私の事を知り留学センターにやってきました。

彼の希望は、国際関係学だったのでコロンビア大学の国際関係学大学院をすすめました。
彼は、学部での専攻が違うので無理ではないかといったので、そんなことはないと説明しました。アメリカでは学部の専攻と異なったことを大学院で専攻しても問題ないことが多いのです。すべての専攻にあてはまることではないのですが、一般的に言ってそういう傾向があるのはアメリカの大学のシステムです。

Aさんの問題としては、TOEFL、GREなどのスコアが少し低いことでした。そのことを彼は大変気にしていて、どのようにしたらスコアを上げられるかばかり聞くのです。
皆さんスコアのことを気にしますが、それは本質的な問題とは言えないことが多いのです。もちろんテストスコアは良いことにこしたことはないのですが、そんなに気にすることはないのです。

それよりもエッセイのほうが、ずっと重要です。今まで彼がやってきたことをわかりやすく英語で書くことが大切なのです。その点は上手くアドバイスできたと思います。
彼は無事に入学を許可され、2年後に卒業しました。今は国連で活躍しています。

上手くキャリヤアップに成功したので、私もアドバイスした甲斐がありました。
本当に良かったと思いました。




留学センターのこと(3)

留学センターで色々な方々にお会いして印象深かったのは、女性の方々の意欲の高さです。

男性よりも多くの方が相談に来ました。皆さんそれぞれ目標を持ち、アメリカをはじめイギリス、オーストラリア、イタリアなどに留学していきました。

その熱心さにこちらが圧倒されてしまうほどでした。その目的も実に多様で正規の留学では、衛生学、国際関係、カウンセリング、看護学、通訳などでした。またそのほかのもとしては、料理、ダンス、声楽など男性に比べて実に幅が広いのです。それだけ目標がハッキリしていて、アドバイスしやすかったです。

ほとんどの方が、実際に留学し皆さん目標を達成したようです。その行動力に頭が下がる思いでした。留学中もノイローゼになるような方はいなかったようです。
それに比べて、男性の方が精神的にまいってしまう方が多かったようです。男性もほとんどの方は上手くいきましたが、中には適応できずに精神的におい込まれて、途中で帰国してしまう方が少なからずいたことは、事実です。

女性の方が環境に適応する力が強いようです。これは動物学者のダーウィンや発達心理学者のピアジェも同様のことを言っています。環境に適応する力を知能とすれば、女性の方が男性より知能が高いといえるでしょう。

それにしても、留学カウンセリングを通じて「女子力」の強さを実感した出来事でした。




アメリカでお会いした人々(1)

アメリカ留学中いろいろな方に、お会いしお世話になりましたが、偶然その後有名になった方や、すでにその時すでに有名な方々に何人もお会いする機会がありました。その時のことを書いてみます。

カーター元大統領

カーターさんは、当時私が在学していたエモリ―大学の理事をしていました。
その関係で、年に一度くらい留学生との交流会を開いていました。
交流会と言っても講演というか特別授業のようなものでした。
私は一番前の席を取り待っていました。
すると、カーターさんはにこやかに入ってきました。
少し顔色が悪いように思いましたが、声はとてもよく響いていました。
留学生相手なのに、両脇にはSPがしっかり立っているのも印象的でした。
話し声は優しい感じで、よく言われていた南部訛りもあまりなくわかりやすいものでした。
これは相手が留学生で、英語のネイティブスピーカーでないことへの配慮だと思いました。
スピーチの内容は、留学生たちのアメリカでの勉強や経験が真の国際関係を作るもとになるというものでした。

スピーチよりもその後の質疑応答の時間が長かったように思います。
内容は主に国際関係、イランとイラクのことについてが多かったです。
カーターさんが、学生たちの質問にとても丁寧に答えていたのが印象的でした。
私は、一つでもいいから質問しようと用意していったのですが、周りの熱気に圧倒されて一言も質問出来ませんでした。
こういう時は勇気を出して、何でもよいから聞いてみるものだと反省したものです。
でも、元大統領に直接お会いしたのは初めてだったので、とても印象的な出来事でした。

もうこれが大統領だった方と直接お会いする最初で最後の機会かと思っていたところニューヨークでもう一人の方とお会いすることができました。
そのことに関しては次回書こうと思います。




アメリカでお会いした人々(2)

アメリカ留学中お会いした方々でカーターさんの次に印象深いのは、フォード元大統領です。フォードさんは当時コロンビア大学の理事をなさっていて、留学生たちと懇談を時折なさっていました。

ある日フォードさんの秘書から電話があり、フォードさんと留学生たちとの会合に出席するようにとの電話がありました。私は、以前エモリ―大学でカーターさんとの会があったので、同様の会と軽く考えていました。

その当日指定された場所に行ったのですが、そんな広い場所はありません。間違ったのかと思っていたら、女性の方が部屋からで出てきてそこに入れというのです。入ってみると、そんなに広くはないきれいな応接間でした。そこに6,7人ほどの留学生がいました。私も指定されたところに座りました。そこで10分ほで待っていると、フォードさんが部屋に入ってきたのです。思った以上に大柄な方でした。

そして、小学生くらいの男の子や女の子を連れて入ってきたのです。その子たちはフォードさんのお孫さんでした。この会は本当にプライベートな会だったのです。元大統領にこんなに近くでお話しできるなんてまずないことなので、本当に驚きました。

フォードさんは学生時代に棒高跳びをやっていたと聞いていたので、何mくらい飛べたのですかと聞きました。すると、フィートで答えたのですぐにはわからなかったのですが、計算しみると5m以上だったので、驚いてしました。

子供たちとは、綾取りをしたり紐で手品をして見せました。これが、思った以上に受けてお孫さんたちとは本当に仲良くなれました。私は子とものことは好きですし、子ともを扱うのは得意です。この時ばかりは小学校の先生の経験が役に立ったと思います。

もうこれが大統領だった方と直接お会いする2回目の経験になりました。ニューヨークではその後大統領になられたもう一人と一緒にコロンビア大学に通っていました。残念ながらその方とは直列お話しするチャンスはありませんでしたが、友人から聞いたエピソートがありますのでそのことは次回書きたいと思います。




アメリカでお会いした人々(3)

オバマさんとキャロライン・ケネディさん

オバマさんは、私がコロンビア大学にいたころ、コロンビアの学部生でした。
彼はカリフォルニアのオキシデンタルカレッジから、コロンビア大学にトランスファーしてきました。
彼はコロンビアには2年しかいなかったので、直接お話しすることはできませんでした。その当時は地味な感じの方だったようで本当に目立たなかったのですよ。

彼はNY にもコロンビア大にも、ややなじめなかったようです。
でもその後彼はハーバードのロースクールに進学したので、勉強はしっかりしていたと思います。

もう一人はキャロライン・ケネディさん。そのころコロンビアのロースクールに在学していました。
一度ロースクールの友人に紹介してもらってお話したことがあります。
すごくしっかりした女性だと思いました。もうそのころから日本に興味を持っているとのことでした。




番外編 プレップスクールについて

プレップスクール(1)

アメリカにおいても、子どもを持つ多くの人々は、わが子ができるだけ良い大学を卒業し、より良い職業につくことを願っています。特に公立学校が地域によってレベルの差があるアメリカでは、日本の進学校とは性格を異にする進学校が発達してきました。これらのほとんどは私立学校で、プレップスクールと呼ばれています。正確にはプレパラートリースクール(Preparatory School)といいます。日本語では米国大学進学準備校と訳されています。

私がこのプレップスクールに興味を持ったのは、ニューヨークで家庭教師をしていた6年生の男の子が、プレップスクールに通っていたからです。彼を教えていくうちに、その教育内容の高さや方法のユニークさを知り、プレップスクールについて調べてみようと思ったのです。

実際にニューヨーク郊外のプレップスクールを訪れ、取材もしました。その時、驚いたのは、私が州立大学に進学する生徒はいますかと、その学校の進路担当の先生に尋ねたところ、印象に残っているのは、この学校では州立大学に進学する生徒は一人もいませんと、言われてしまったことです。

私としては、ニューヨーク州立大学(SUNY)も良い大学だと思っていたので、そこまで言うのかと思いましたが、反論できないほどの雰囲気でした。何しろプライドが高いことは確かでした。進学先はハーバードやコロンビアなどのいわゆるアイビーリーグ校がほとんどで、90%以上だと言っていました。

しかし、日本の灘や開成などの進学校と決定的に違うのは、受験勉強をしないということです。大学進学準備校なのに受験勉強をしないというのは、矛盾すると思われるかもしれませんが、ここがプレップスクールの特徴で、アメリカの教育の一側面を表しているものだと思います。

これから、何回かに分けて、プレップスクールについて具体的にお話していきたいと思います。


プレップスクール(2)

アメリカの大学教育は、イギリスのオックスフォード大学やケンブリッジ大学と同等の大学を創ろうとすることから始まりました。これが動機となり1636年にハーバード大学が創立されたのです。その後、ほとんど同時に大学に入学する前の大学準備校として、イギリスのイートン校、ラグビー校といった学校と同様のシステムで、アメリカ東部を中心にラテン語を教える学校が開設されました。これが、プレップスクールの起源となっています。しかし、これらの学校は現在のものとは、内容的には異なっていました。

現在のプレップスクールの性格を持つものとしては、1778年に創立のフィリップス アカデミー(マサチューセッツ州)、フィリップス エグゼクター アカデミー(ニューハンプシャー州)などがあり、現在も名門校として存在しています。

両校ともハーバード大学、エール大学、プリンストン大学、コロンビア大学など1600年代から1750年頃に創立された東部の大学の入学準備校としてつくられた学校です。その後、これらの4大学を含む東部の8大学からなるアイビーリーグ校(ハーバード大学、エール大学、プリンストン大学、コロンビア大学、ブラウン大学、ダートマス大学、コーネル大学、ペンシルバニア大学)と呼ばれる私立大学の誕生と共に、アメリカ東部を中心に全米各地に次々とプレップスクールが生まれました。現在では、具体的な地域としては、ニューヨーク、ボストンだけでなくカリフォルニア、遠くハワイにまで及んでいます。

アメリカにおいて、プレップスクールは中等教育が中心ですが、小学校を併設しているところもあります。多くは、男女共学ですが、男子校や女子校もあります。これらの学校は大学準備校としての共通の性格を持ってはいますが、その特徴は実に多様で個性的です。学校としての規模はどれも小さく800人前後のところが多いです。

従って、私立学校であることにもよりますが、学費は年間3万ドル(300万円)程とアメリカの私立大学並みに高額になっています。入学は全入制ではなく、かなり厳しい入学試験があります。これは小学生であっても同じでその意味では、アメリカにおいてはかなり特殊な学校であると言えるでしょう。そうであっても、希望者は多いので、倍率は高く入学するのはそう簡単ではないようです。

入学者の選抜基準、方法については次回に詳しく、お伝えしたいと思います。


プレップスクール(3)

プレップスクールは、前にも述べたように、アメリカの一流大学に入学するための大学入学準備校ですから、その教育水準は高く入学者の選抜も厳しいものがあります。
入学者を決める時の基準は、学力テストの成績や内申書だけではありません。入学希望者の性格、才能、家庭環境、両親の職業や学歴また推薦状なども考慮されて入学が決定されます。

これは、アメリカの一流大学の入学基準と方向性が同じだと考えて良いでしょう。プレップスクールでは、将来、ハーバードなどのアイビーリーグ校やそれに順ずる大学に入学できそうな子ども達を中学生、いや小学生の段階から選抜して教育していこうとする意図がうかがえます。

プレップスクールは、大学入学準備校ですが、大学進学のための受験勉強は行いません。日本の大学センター試験にあたるSATやACTのための特別な勉強はしないのです。これらのテストがそんなに難しくないこともありますが、標準学力テストの点数を上げるよりは、バランスのとれた本当の学力を子ども達につけさせることを教育目標にしていくことによるのでしょう。

プレップスクールでの勉強内容のレベルは高いです。以前、家庭教師をしていた小学6年生のリサーチペーパーの課題が、私のコロンビア大学のものとほとんど変わらなかったことがあったのですが、そのときは、本当に驚きました。課題は、暗記させるものは少なく、考えさせるものがほとんどでした。まだ、小学生なのにリサーチペーパーの書き方に慣れていたのは、私の方が参考になったくらいでした。

彼によると、学校ではディベートもよくやっているようでした。例えば、次の大統領選挙では共和党側が勝つか、民主党側が勝つかクラスで二つに分かれて議論するそうです。
それも単に勝ち負けだけではなく、その公約や政策の違いまで議論するのです。両グループとも、大統領候補者役の子どもをたて、演説させるそうです。そして最後は有権者役の子ども達に投票させるとのことでした、まるで、大統領選挙さながらの授業です。

このような授業は、日本の学校ではできないと思いました。その是非はともかくとして、子ども達に参加させ思考させる授業形態は、非常に印象的であり日本の教育と比較してみると考えさせられるものがありました。


プレップスクール(4)

10スクール(テンスクール)とは、選ばれた有名プレップスクールの総称です。本来は、アメリカにおいて、歴史的起源が古く、学術的権威のある名門ボーディングスクール(寄宿制中等教育機関)10校のことを The Ten Schools(ザ・テン・スクールズ)と呼んでいるものです。これを日本でも模倣して、学習塾の鉄緑会が指定校扱いをする男子校10校のことをこう呼ぶ様になりました。

アメリカ合衆国内「The Ten Schools」

  • フィリップス・アカデミー(1778年創設、アメリカ合衆国マサチューセッツ州)
  • フィリップス・エクセター・アカデミー(1781年創設、アメリカ合衆国ニューハンプシャー州エクセター)
  • ディアフィールド・アカデミー(1797年創設、アメリカ合衆国マサチューセッツ州)
  • ザ・ローレンスビル・スクール(1810年創設、アメリカ合衆国ニュージャージー州)
  • ザ・ヒル・スクール(1851年創設、アメリカ合衆国ペンシルベニア州)
  • セント・ポールズ・スクール(1856年創設、アメリカ合衆国ニューハンプシャー州エクセター)
  • ザ・ルーミス・チャフィー・スクール(1874年創設、アメリカ合衆国コネチカット州)
  • チョート・ローズマリー・ホール(1890年創設、アメリカ合衆国コネチカット州)
  • ザ・タフト・スクール(1890年創設、アメリカ合衆国コネチカット州)
  • ザ・ホチキス・スクール(1891年創設、アメリカ合衆国コネチカット州)

日本の「10スクール」

  • 麻布中学校・高等学校(東京都)
  • 栄光学園中学校・高等学校(神奈川県)
  • 海城中学校・高等学校(東京都)
  • 開成中学校・高等学校(東京都)
  • 駒場東邦中学校・高等学校(東京都)
  • 巣鴨中学校・高等学校(東京都)
  • 聖光学院中学校・高等学校(神奈川県)
  • 桐朋中学校・高等学校(東京都)
  • 筑波大学附属駒場中学校・高等学校(東京都)
  • 武蔵中学校・高等学校(東京都)

この二つのグループは、似ているようで全く違っているのは、一目瞭然でしょう。


プレップスクール(5)

プレップスクールに入学するためには、Outstanding talent (抜き出た才能)が必要とされます。

具体的には、学力(数学コンクールで入賞など)、運動(全米レベルの大会で優勝)、リーダーシップ(組織の設立、運営する能力、生徒会活動など)、地域貢献(教会活動、ボランティアで多大な貢献をする)などが考えられます。 言いかえると新聞、テレビなどのメディアで紹介されるほどの活躍をするような子どもはOutstanding といわれます。

また、そこまで飛び抜けていなくても非常にバランスよく学力、運動、リーダーシップ、地域貢献の能力がある子どももOutstandingであると評価されます。
Outstanding Talentには別に物差しがある訳ではないので、「私はこの点がoutstanding である」と自分から売り込んでも全く構いません。それは、むしろ良いことだと思います。

プレップスクールには、以下のような特徴があります。

  1. 一クラスの人数が8~15人程度と少ないことです。したがって、きめの細かい個人指導が可能です。
  2. 学習のレベルが高く、しかも暗記させるのではなく考えさせる課題が多いので、本当の学力が身につきます。
  3. 勉強だけでなく、スポーツや芸術にも力を入れています。それも趣味のレベルを超えている子どもたちが多いのです。
  4. 多くは、寮生活をしているので、規則正しい生活を送っています。したがって、協調性や思いやりを身につけることができます。
  5. 先生や看護士さんなどが一緒にキャンパス内で暮らしているので、安全でアットホームな環境が作られています。

以上のように、学力ばかりでなく人間としての成長が大切にされているのがプレップスクールであると言えるでしょう。


プレップスクール(6)

プレップスクールでは、授業ごとに教室が異なり、授業の顔ぶれも異なります。この方式はアメリカのどの学校にもあることです。日本での大学での方式とほぼ同じです。つまりアメリカでは大学のようなシステムが、小学校段階から始まっているということです。したがって、座席も決まっていません。

私が、実際に授業を見学したときは、授業は先生の講義を生徒達が聞くというよりは、宿題として製作したリサーチペーパーとテキストを中心に、生徒達が自由に意見を出し合い発表していくというスタイルでした。生徒達の授業への取り組みは、実に能動的で生き生きとしていました。教える先生のほうも、厳しい中にもジョークをまじえて実に楽しそうに授業していたのがとても印象に残っています。

プレップスクールでは、数多くの科目のなかから、生徒が各自で科目を選んで時間割を作成します。必修科目もありますが、それも何人かの先生の授業から選択することができることもあります。選択科目も多く生徒は自分の気に入った興味のある授業を取ることができます。この点も、アメリカの大学のシステムと同じであると言えるでしょう。

アカデミックアドバイザーがいるのも、アメリカの大学のシステムと同じであると考えていいと思います。科目の選択や成績について生徒一人ひとりに、木目の細かいアドバイスをしていくのが普通です。アドバイザーと生徒との関係は、まるで親子のような二人三脚でゴールを目指していくようなものと考えて良いでしょう。

成績のシステムも大学と同様でABCDFでつけられ、それぞれ43210の点数がつけられます。成績の平均点(GPA)がやはり非常に重要になってきます。なぜなら、ハーバード大学のようなアイビーリーグ校に入学するためには、できるだけ良い成績が必要だからです。GPA3.5は必要でしょう。しかし、プレップスクールの生徒たちが優秀であっても、中にはついて行けなくなる生徒もいます。一般にGPAが2.0以下になると退学になってしまうそうです。

プレップスクールでは、スポーツや文化活動も非常に重要です。というのは、アイビーリーグ校では、学業が優秀なだけでは入学できないことが多いからです。学校は、そのために生徒の色々な才能を発見し延ばすために、クラブ活動を活用しています。そのためクラブ活動も生徒たちの余暇や趣味のためというよりは、もっと真剣に取り組んでいます。かといって生徒たちが楽しんでいないと言うわけではありません。また大学入学のためだけにクラブ活動をやっているわけでもありません。それを、念頭に入れている生徒はいるとは思いますけどね。


プレップスクール(7)

プレップスクールの進学先の例として、フィリップス・アカデミーを挙げてみたいと思います。この学校は、プレップスクールとしては名門中の名門で、2010年度の卒業生300人あまり全員が大学に進学しました。それも、ハーバード大学、エール大学、コロンビア大学、コーネル大学などほとんどがアイビーリーグ校でした。

一般に、プレップスクールの生徒たちの進学先は、アメリカ東部においては伝統的にハーバード大学を中心にしたアイビーリーグ校8校に集中しているのが特徴です。しかし、アイビーリーグ校の学生がプレップスクールの学生で占められてしまっているわけではありません。最も占有率が高いエール大学でさえ、45%で、55%は公立学校出身者なのです。

以前、ハーバード大学ではプレップスクール出身者が50%を超してしまったため、特定の学校からの入学者を制限するという試みがなされました。現在でもこの方針は残っていますが、入学希望者からの不満の声はそれほど大きくはないのが現状です。これは、アメリカのトップレベルの大学にそれほど差がない事と、編入や大学院進学の際に再びチャレンジできることにもよると思われます。しかしながら、プレップスクールの出身者が州立大学よりも私立大学、特にアイビーリーグ校に大量入学していることは、確かであるといえます。

これには、いくつかの理由があります。確かに受験生の中にはブランド志向的なところがないわけでもありませんが、それは少ないと思います。アメリカの大学創立の歴史的特長として私立大学優位であったことが、第一の理由だと思います。アメリカでは多くのレベルの高い私立大学ができた後に、一般大衆のための大学として、各州政府によって州立大学が創立されています。

第二には、伝統ある私立大学の方が、概して州立大学よりも教育内容が充実していることがあります。一教官に対する学生数では、私立大学の方が州立大学に比べて圧倒的に少ないのです。これは日本とは全く反対です。また、教官の博士号取得率も私立大学の方が高くなっています。

第三には、私立大学の学生の大学院進学率が州立大学より高いことがあります。現在、アメリカの大学においては、学部では一般教養の教育が主なので、より専門的な教育を受けるためには、大学院進学が一般的です。特に、医学部(メディカルスクール)、法学部(ロースクール)、経営学部(ビジネススクール)などの人気のある学部は、大学院から始まるので、これらの学部に進学率の高い私立大学に人気が集中することとなります。

このような理由によって、プレップスクールの生徒たちの進学先がアイビーリーグ校に偏っているのだと思われます。


最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional